三十四歳トーシュルツパニック-20

 小児が皿を取り落とす音に俺は我に帰る。

 甘えてなどくれないチハルがただ一度心を開いてくれたあの夜を、俺は目前の朝山さんと重ね沈思していた。朝山さんは物音にちょっと目線をやるだけでまた紅茶を啜る作業に戻ってくる。細まる瞳に楽しさなど宿っていない。朝山さんの希望したビュッフェだのに。肩透かしを食った感じだがたぶん今日の俺は失格なのだろう。今後朝山さんも俺を避けるだろうか。

 なぜこうも俺の行いは空回る。市井の男と俺とで何が違うというのだ。俺だって父だ、男だ。俺に足りぬものとは。

 もしや一度離れた心はもう取り戻せないのだろうか。だとしたら俺はもう朝山さんと喋れないのか。チハルは。チハルはどうなる。もうキモイシネ以外の感情を向けてくれないのか。俺の愛とは何だ。こんなにも捧げた俺のこの感情は何だったのだ。

 突然ばちんと肉を打つ不快音がして俺も朝山さんも思わずそちらを見やった。周囲の耳目を集めたその中心で、誰あろうちはぴみさんが声を張り上げる。

「いい加減にしてよ! なんでいっつもママに迷惑かけるの!」

 幼子は泣いてしまった。ちはぴみさんはそのままテーブルに突っ伏す。ウェイターが駆け寄り子供の機嫌を取りなすが止まない。ちはぴみさんは明らかにイラついた素振りでクロスを握りしめる。対面にはひとり男性も座る。男は我関せずと食事を口に運ぶ。

 ああ、あれはちはぴみさんじゃないか。一体どうしたというのだ。なんであなたのような方が子供に手を上げているのでしょうか。対面の方はどなたなのでしょう。新しい恋人だろうか。新しく恋人ができて我が子とともに食事へ来られたのだろうか。だとして幼い子供の振る舞いはちはぴみさんに恥をかかすことになろうか。そうだとしてもだ。愛しき我が子になぜ暴力を振るう。

 気づけば周囲の誰もがちはぴみさんたちを気にしていた。子は泣き止む気配も無い。皆がちらりと視線を送り顔を近づけてはひそひそ声で何やら言葉を交わし合う。全面のガラス窓にそんな俺たちの姿が映し出されている。ビル群の灯りが絵の中の俺たちを掴んで晒しあげる。ちはぴみさんから目を逸らせば、今度はメインテーブルに群がる行列たちが、さも目前の飯にしか興味がありませんといった風を装い、部屋の背景を形作る様が目に写る。

 頭の奥が激しく揺れた。カップを取り落とすほどだった。

 熱いコーヒーとともに、すとんと腑に落ちた。

 俺は自意識だけを世界と見做し在った。他者と交流し、そこに外界があることを痛感した。人の数だけ意識がある。そのせめぎ合いと境界とを知った。誰しもが俺と同種の感情を保有しているのだと、今、実学として体感した。目を向ければ世界はどこまでも広がり、俺と、酷似した俺たちとの重なりによって風景は形作られる。みな同じなのだ。そして世も自意識を拡張した先でしか無いのだ。

「出ようか」

 ぼんやりと目をくれていた果ての朝山さんの声に俺は手元の液体をぐっと飲み下す。足を揃えたまま立ち上がる彼女の美しき所作よ。この空間にこれほどまで美しい方がいるだろうか。俺も口元を拭うと慌てて立ち上がる。

 目の端でちはぴみさんまで立ち上がる。ちはぴみさんは子の顔を両手で引っ掴む。

 今度は対面の男まで立つ。男はちはぴみさんの髪を掴み上げおらび声を上げる。ウェイターがすかさず制止を入れる。場の誰もが振り返った。その顔々は臆病な好奇心に塗れていた。俺もそうだったろう。朝山さんだけが前を見続けていた。

 騒動を背に俺たちは店を後にし、道々の灯りに朝山さんの横顔が浮かび上がるなか、お互い何も口を吐かなかった。チハルと共にあった家路と違い気まずさばかりが先行する。これは並び歩いているからか。俺がこの女性を意識し始めているからか。少ない経験値では答えが出せない。

 体のラインがぴたりと浮くスカートの上に、財布と変わらぬほどの鞄を摘む手の先が、通りがかる車のヘッドライトを浴び妖しく光る。腹の横で絞られた稜線が腸骨の丘を越え尻に到達する。なだらかに丸くあるこの山道を俺は気を窺う振りをしつつ何度も盗み見た。

「江川くんはさ、シングルなわけでしょ」

 信号を待つ二人の前を幾台もの車が駆け抜ける。そのたび丘陵は影に覆われ、また照らされ、しかしそこに翼も後光もないのだった。

「やっぱちゃんとお父さんなんだよね。子供を優先に動くだなんて私できやしないもん。今日だってわざわざ帰ってから来たんでしょう。着替えてから来たんでしょう」

 おろしたてのシャツにじんわりと汗が滲み、普段全く気にも止めないくせして脇汗の跡が浮き出やしないだろうかとそればかりを考えてしまう。

「夜に会うのはもうこれきりにした方が良いね。また、たまにはご飯誘ってね。じゃあ、横断歩道渡ったら私、右だから」

 ああ、朝山さんが行ってしまう。俺の人生に初めて関わってくれた女性が手を離れてしまう。二軒目も何も無い。今日はとことんまで居れるようチハル部屋の冷蔵庫にはおやつまで詰めてきた。今日のこれは明確にデートであると愛娘にも宣言して出てきたというに。夜に会うのはこれきりだって? 昼日中には疲れが取れないからと、夜にしか会えぬとおっしゃったのは朝山さんの方でないか。

 ドラッグストアに寄れば声はかけてくれるだろう。しかしそこに同窓以上の情愛は含まれぬはずだ。俺ごときに察せられる未来だ。まず間違いない。

 朝山さんの背が闇に溶けるまで俺は手を振り続けた。彼女はついぞ振り向かなかった。そういえば彼女は今日何を食べたっけ。朝山さんが何を頼んでいたかすら見えていなかった。それほどまでに盲目であったと気づいた時にはもう何も取り返しがつかない。もっと早く知っておきたかった。愛と恋との痛みについて。

 つと、ポケットの中のスマホが鳴る。それは先刻のホテルからの着信であったが期待せずにいられない。朝山さんだろうか。そんなわけはないのに。雑誌にハートマークを記したチハルの情動に俺はやっとたどり着いた。

「はい」

 ぼそぼそとか細くしか喋られぬ俺も、ここ最近では自身の音声が発せられるようなった。チハルがおり、朝山さんがおり、自分の気持ちをまっすぐ伝える大切さを学ばせてもらった。そうしてタイミングにも重きがあることを知った。だから俺はいまここに立ち尽くしているのだ。

「江川様のお電話でよろしいでしょうか」

「はい」

「こちらグランドホテルのコンシェルジュでございます。お出になってくださりありがとうございます。また先ほどは当ホテルのオーベルジュをご利用くださいまして誠にありがとうございます。重ねて御礼申し上げます」

 なぜこうもすらすらと堅苦しい言葉が出てくる。俺も営業職であったのならこのような語群が口を吐いたのだろうか。

「大変失礼ながら予約者名簿より架電いたしております。江川様のものと思われるお忘れ物についての用件でございますが、いま少々お時間いただけますでしょうか」

「忘れ物?」

「はい。手前どもの取り違いでありましたらご容赦いただきたいのですが、フロントにてお財布のお忘れ物がございましてご確認いただきたいのです。茶色の起毛地の二つ折りのものでございます。お心当たりはございませんでしょうか」

 や、俺のだ。間違いない。そういえば右のポケットに何も入っておらぬ。言葉は考える間も無く飛び出ていった。

「中を見たのか」

「誓ってそのようなことはございません。当ホテルにてお食事をなされた方のお持ち物と推察されましたため、失礼ながら順番に連絡をした次第でございます」

「どうせ、中身を見たから、電話したんじゃ、ないのか」

「そのようなことは一切ございません」

「中を、見たんじゃ、ないのか」

「ご安心ください。誓ってございません」

「どうせ、中を、見たから、電話してるんだろう、お前らは!」

 老醜クソあかねの時と同じく、意識と乖離して言葉が溢れ出て行く。中を開けたわけなんて無いんだ。覗き見たのならば俺なんかに連絡を取らず通報しているはずなのだから。だけれど過日はあれだけワイドショーを賑わせていた高橋チハルの学生証とSIMカードとが衆目に触れた恐れを、俺は拭えずいる。俺の行いが暴かれる可能性よりも、チハルの、江川チハルでなく高橋チハルである物証が解き放たれた恐れに、言葉は暴発した。

「それは俺のだ。すぐ取りに行く。絶対に、中を、見るな」

「かしこまりました。他の者にも厳命いたします」

「それは俺の命よりも大事なものだ。良いか、命よりもだ」

「でしたら江川様、私が大至急お持ちいたします。お任せいただけないでしょうか。絶対に中を見ることはいたしません。至急お持ちいたします」

「誓うか。絶対に見るな」

「当職に誓います」

 俺は自意識だけを世界と見做し在ったわけだ。他者と交流しそこに外界があることを痛感した。人の数だけ意識があり、そのせめぎ合いと境界とを知った。目を向ければ世界はどこまでも広がり、俺と、酷似した俺たちとの重なりによって風景は形作られる。皆、等身大の自分でしかないが、皆、おのおのの自意識を保有しているのだ。

 しかして財布はあっさりと手元に戻ってきた。道向こうから駆けてきたホテルマンは肩で息を切り微笑む。俺はそれを受け取る段になって、お礼をまだ述べていないことにようやっと気づくのだった。

「あの、すみませんでした。ありがとう、ございました」

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