三十四歳トーシュルツパニック-19
充電器は合わなかった。姫はしきりにぶつくさ不平を漏らしていたが、やがてピザが運ばれてくると大人しくなった。ねえゲームないの、ねえ漫画ないのと問われるも、我が家にそんなものはない。
「いつもどう過ごしてるの」
そういえば昨日まではどうやり過ごしていたのだっけ。テレビはある。たまに映画を点ける。年に一度くらい。ノートパソコンはあるがしばらく起動していない。だいたいいつも残業だ。俺なんかは下準備くらいしか任されないが、それでも激務の部署だもの、縁の下の力持ちたる自負はある。スーパーかコンビニで夜食を買い気分の良い時にはコーラをつける。稀な早上がりの週末なんかには低アルコールのお酒をたしなむ。だけれどどうだ。そうしてシャワーを浴びて歯を磨き寝る。日付が変わる前には床に就く。たばこはやらない。物欲もない。食品以外で物を買ったのはいつだ。二ヶ月ほど前に靴下を買ったか。ごみはレジ袋で出すから本当にこれくらいだ。あとは年明けに洗剤を買い貯めたくらいか。趣味もない。いちおう毎晩の食事を楽しみにはしている。
部屋に他者がおり心地の悪さがあると思いきやそんなことはなかった。
俺にとって初めての感覚かも知れない。
人と話すことが楽しいのだ。
自分の気持ちをぶつければ返答がある。誰も俺を馬鹿にしない。自分の言動の舵取りを自身がこなして良いという多幸感。いつぶりだろう。誰も俺を笑わない。
高橋チハルは棚の文庫本を読んでいた。あれを買ったのはいつだったか。もうストーリーなんて忘れてしまった。もしや最後まで読んでいなかったやも。チハルも読み慣れてはいないのか、たまに顔を上げては「彼女はいないの?」「仕事はどんなのしてるの」「マジ何もないね江川くんち」などと言った。人から興味を示されるのもついぞなかったことだ。
そのうち、
「うちさぁ、今日も誰もいなくってね」
と問わず語りに語り始める。チハルの目は本から離れない。ソファーの上で足を組み、よく見ると耳にはピアスも光る。指が背表紙を撫でるさまに俺はこれまでの少ない経験から黙したまま聞き入ることを選択した。
「うちシングルなんよ。母子家庭でさ。ママはすごいと思うけどあんま会話なくてさ。ママずっと働いてんの。昼は工場の事務って言ってたかな。そこからスナックのお仕事。週末も昼キャバとかスナックとか働いてんの。すごいけど、気づいたらたまにしか会わんから何話して良いのかわかんなくてさ。私、朝洗濯してんの。洗濯が私の役目。ママ毎日働いてっけど私そんだけ。それも二日にまとめて洗濯機回すだけ。お父さんはいるの。別れただけでさ。あ、私パパはお父さんって呼んじゃうんだよね。年に一回は会ってるかな。会うたび何か買ってくれる。前は無線式イヤフォンくれた。でももう再婚しちゃって家族いるんだってさ。会ったことないけど、私十個下の妹いるみたいなんよね。絶対可愛いよね。いつか会うことあったらいっぱい可愛がるんだ。でも、たぶん会わない。それってたぶん良くないことなんだよ。私、なんでかなぁ、なんかずっと胸の奥がむしゃくしゃしてさ、ずっと、これじゃあ駄目だって思ってんだけど、いつも起きたらもう遅刻なの。それでもまだ二限には間に合う時間なんだけど、そこから洗濯して、ちょっとテレビ見てたらもうお昼なの。別に学校いやなわけじゃないよ。仲良い子もいるよ。私友達多いんよね。放課後は誘われてカフェ行ったりする。こないだ桜テーマの新作飲んでさぁ、すっごくおいしかったんだ。江川くんこういうの……ん、飲まなそう。誰からも誘われん時にはこっちから声かけるかなぁ。歳上のさぁ、知り合いの知り合いから仲良くなってくんだけど、声かけたら誰かしら一緒いてくれるかんさ。そんでご飯行って二時間くらい休憩入ってもママまだ帰ってないの。そっからクラブ行って帰ってもママまだ働いてんの。大人ってすごくね。日付変わって帰って、そんでまた次の日早くに出てって仕事すんだよ。江川くんもさ、いっつもいっつも同じ時間に公園いんじゃん。私無理だもん。決められたサイクルで動くなんてさ」
チハルは訥々と語る。俺はなんら気の利いた返答もできない。それに口を挟むべきではないと感じた。たまにチハルが口籠るたび、俺は「うん」とだけ発し首肯した。いつの間にか文庫本は閉じられ投げ出されていた。
「私大人の友達のが多いの。だいたい最初は、チハルちゃんはかわいいねぇなんて言って子供扱いなの。けど気づいたら、チハルちゃんはもう大人だよとか言っててさ。大人ってなに。だって聞き返してもさ、にやにやしながら、大人は大人だよとか言ってんの。私さ、わがままなんだよね。ママあんなに頑張ってるのにもうトンカツは嫌なの。二十四時間スーパーのさ、消費期限が前日のやつ。七十五パー引きのシール貼ってあんの。ママいっかい抜け出して惣菜買いに行くんだって。お客さんとかも分かってるから笑って送ってくれるて。すごくたまにね、ちょっと高そうなお弁当置いてあるの。お客さんのお土産だって。でもやっぱりチハルが食べる頃にはもう期限過ぎてんの。ママ美人だし、感謝もしてる。けどチハルは、私は、そうじゃなくてさ、ごめん、最低だね、家にいるのが本当に辛い」
俺は言葉の代わりにコーラを置いた。チハルは一息にあおって、しばらくグラスを眺めてから俺に差し出した。俺はおかわりを入れに立つ。チハルはありがとうと言ってからそれを受け取る。「ちゃんと注いでくれるんだね」とチハルは漏らす。俺はただ頷く。
「江川くんてさ、なんかずっとあそこいるじゃん、お昼。私たぶん小学生ころにも見たことあんだよね」
俺もずっと昔から高橋チハルを知っている。
「私さ、たまにだけでもまたここ来ちゃ駄目かな」
気づけばチハルは俺を見る。やはり美人だ。くっきりと通る鼻筋、真一文字に結ばれた唇、陰のごとく暗い瞳なれど細眉のアクセサリーが引き立てる。十年前の屈託ない笑顔はどこだ。今のこの顔には様々入り混じる。俺にその全ては分からない。
俺は頷いた。チハルは目を見開く。
「いつでも来て良い。いつでも好きにいて良い」
チハルは頷く。
「望むなら合鍵をあげる。俺なんかで良ければ居場所になる」
チハルは再度頷く。
「だから、お願いだからそんな悲しい顔はしないで。俺、こんな時どうしたら良いかなんて分からないんだ。あなたが悲しそうだと俺も悲しいです」
「なんか」チハルは言う。「なんで? なんか江川くんのが辛そうな顔してる」
それはそうだろう。十年前から知っているんだ。あの時のあの笑顔を励みに俺は生きてきたのだ。君は俺にとっての女神なのだ。
「でもさ、さすがに合鍵は重い」
「うん」
「けどありがと」
「うん」
「江川くん、あれね。うん、て、ばっか言っちゃうの、ちょっとお父さんに似てる」
「帰りたくないなら、今日は泊まってって良い。良ければですけど」
「ん、ありがと。ありがとうね江川くん」
そうしてチハルは泊まっていった。
俺らはずっと会話をしていた。飽きもせずずっと。お互い気づけば口をついていた。自分がこんなにも何かを話せるだなんてことに俺は驚いた。チハルはどんなことにも返事をくれた。嬉しかった。だから俺だって同じようにした。何かを語り、それを受け止めてくれる相手がありパイが投げ返される。そうかこれが会話のキャッチボール。この子もそれに飢えていたというなら高橋チハルは御仏だなんてことはない。一人の人間でないか。同じように苦悩し、生と折り合いをつける道半ばの女の子。チハルのほうが大人の度合いとしては上かも知れぬ。しかして俺らはともに子供だ。俺は自身のこれまでを恥じる。早く大人になろう。この子に差し示してあげられるくらいの。
日付が変わり、この可愛らしいヤングアダルトの寝息を見てとり俺も横になった。
今晩一晩分の安息だけでもチハルの精神が満たされたならば。俺の生はまさにこのためにあったのでないか。そんなことを考えながら眠りに就く。
翌朝、インスタントの米と味噌汁とを置いて出社する。
日中、実験用の培地を作成しながら昨夜のことを反芻する。チハルはもう家に戻っただろうか。
昼食時、チハルの洗濯物を干すさまを思い浮かべる。自身の服もあろう。母の作業着もあろう。それが梅雨入り前の湿った風に吹かれゆらゆらと蠢く。
残業時、俺はifの世界を思い描く。このまま我が家に居着いてくれないだろうかと。いくらでも甘やかしていくらでも子供扱いするというのに。俺は同僚たちの散らかした器具を洗いひとつひとつ滅菌器に放り込んでいく。チハルも同じように食器を洗うだろうか。きっとチハルの役割は洗濯だけではない。食器洗いや風呂掃除もあの子の役目なのだろう。名目上は大人たる自分と対外的に子供たるチハル。何が違うというのか。俺も早くに親を亡くした。まだ甘えていたかった。大人になんてなりたくはなかったんだ。大人になんてなれてはいないけれど、いつまでも絶対の庇護のもとありたかったのだ。
退社すると俺は地下鉄に乗り込んだ。もし万が一、今もまだチハルが我が家にいたとするならば、俺はたぶん足を踏み外す。だから帰りたくなかった。少しでも帰宅を引き延ばしたかった。当てはない。とりあえずはターミナル駅で降りてみた。普段電車なんて使わない生活であったし、出不精であったからどこに何があるのかなんて分からない。俺はただ歩いた。チハルはこのあたりに来ることはあるだろうか。俺よりも詳しいだろうか。気づけば脳内には高橋チハルが氾濫する。
手錠はこの時購入した。むっとすえた空気が鼻の中で暴れ回る下卑た空間に、店員のやる気のない声と、そこかしこのモニターから流れる矯声とが宙を舞う。巨大な芋虫然とした棒がうぃんうぃんと蠢く。俺はオナホールと手錠とを買った。なんで購入したのだったかは霞がかって思い出せない。しかし買った。買ったのは事実だ。
かなり遅い時間になって晩飯を食していないことに気づく。目についた鉄板焼き屋でお好み焼きを焼いてもらった。二枚だ。万一だ。万に一つもないだろうが、万が一だ。袋から漏れ出るソースの匂いに辟易としながらあり、俺は歩く。いつもの公園、いつもの住宅地、いつもの田畠。しかしいつもと違うのは明かりの灯る我が家だ。俺は扉の前に立ち尽くし泣いた。高橋チハルはこの光景を知らぬのだ。そうして知らぬまま歳をとってゆくのだ。
扉を開けると奥からチハルがぴょこっと顔を出し、
「あ、おかえり。ごめんね、何かずっといちゃった」
チハルは笑んだ。
俺はまたも目尻を湿らしそうになりながらこの愛おしい存在を抱き止めた。
チハルは何やらもぞもぞと蠢くが、やがて俺の背に腕を回す。
「江川くん、どした」
それはこちらの台詞だ。まだいてくれたというこの事実に、俺という存在の肯定、チハル嬢のSOS、そして俺の過去への救済が見え隠れした。
俺はチハルの額に口付けた。俺たちの身長はそう変わりなかったから少し背伸びをした。チハルの目が俺を射止めた。今日この時チハルの目は輝いていた。たしかだ。
チハルも俺の頬に唇をつける。
こんな子に孤独を与える親がいるらしい。
神と見紛うほどのこの子に苦を与える大人があるらしい。
だから俺は娘に迎えざるを得なかったのだ。
俺はチハルの足に手錠をつけた。
「え、何、江川くんこういうの趣味なの、え」
俺はチハルの手を引く。チハルは戸惑いながらも従う。
良い子じゃないか。こんな良い子だからこそ、これから全てを取り戻させてやらねばならない。
「今日から、江川チハルになってください。俺が親代わりになります。独りになんてさせません。毎日ご飯を作ります。ずっとここにいて」
俺は手錠の片側をクローゼットの支柱に嵌めた。
「何、どういうこと、ちょ、待って、意味わかんて」
チハルは足をばたつかせ抵抗した。けれどいつかは分かってくれる。将来を考えるならばこの方が良いのだ。成人するまでは数年ほどしかない。この数年で俺が父性を与えてやる。だからチハルは娘になれ。二人で家族となろう。子供であれるのは今しかないのだ。
チハルはそこから一晩喚き通し結局お好み焼きは前日のものとなった。
俺は自炊を始めた。味噌汁には出汁を入れねばならぬことを知った。炒め物には下茹でなる行程があることを知った。早く父とならねば。早く親とならねば。この子には時間が無い。少しでも長く家族を味わわせてやらねばならぬのだ。
俺はこの先の全てをチハルに費やそう。
この時チハルが江川と呼んでくれたから俺の人生も変わったのだ。くせえ徳太子でもウンチュウでも無く、侮蔑の意も込めず俺の名を呼んでくれたのはかつての実母以来だ。だからもう母性は育てなくて良いのだよ、チハル。俺が子供を取り戻させてやる。
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