三十四歳トーシュルツパニック-18
江川チハルほどの美人はいない。
我が家に来た時分にはサイドを刈り上げていた。陰をたたえる目元がすぅっと細くなり頬が微かに持ち上がるたび空間は華やぐ。箸の持ち方が綺麗だ。白く長い人差し指が優雅に動く。咀嚼しようと開く口元は愛娘ながら性的に過ぎる。手錠擦れの痕すら妖艶なボディペイントのごとく肌に映える。
チハルのおかげで生活にハリが出来た。我が家へ来てくれたことに感謝している。しかし同時に、チハルの孤独を癒してやれなかったはずの前親を憎たらしくも思う。
人は言う。江川は安楽なのだと。何も考えずのほほんと生きているのだと。頭の中が空っぽの思考放棄人間なのだと。
いつだってこんなに自意識が溢れているのに。ぐるぐると考えこんでしまってうまく発露し得なかっただけなのだ。そを良しとし改善してこなかったのは俺の責任やも知れぬ。しかしどんな人間にだって一個人としての尊厳があることを俺は忘れずいたい。
あの日、チハルが我が家に上がり込んだあの日、姫は藤棚を仰ぎ待っていてくれた。日の落ちかけやや赤みがかる世界と下がる若紫の額縁との中心に、これから江川となる高橋チハルが待っていた。俺を見とめるとチハルは「スマホ電池ないなった」とはにかんだ。
「電池終了さんチーム。まぁじ暇いかった」
分厚めのスマホを掲げてみせる。俺のとは違い丸みを帯びたシルエットにこの子の女性性が浮かび上がる。
「ねえ家行ってい? 充電器貸して」
俺は答えに詰まってしまった。見知っただけの者を家に? 女性を家に? 「ねえいいじゃん」と上目遣いに目をくれるチハルに邪気はなかった。もちろん俺だって襲おうなどという考えを抱くことはないだろう。しかし社会通念上、幼き女子高生を自宅に招くだなんてどうだ。や、おかしなことを言っている。社会に迎合できていない自分が道徳を説くのか。そも疚しさを覚えてしまっているから自分の根底にだって嫌らしい悪なる衝動が潜んでいるのやも知れぬ。
「何があったんでしょうか」
俺は慎重に言葉を選んだ。俺の言動により機嫌が損なわれてしまう仮定が恐かった。何をどう話して良いのかすら分からない。コミュニケートをさぼって生きた自分への罰なのだと感じこの時の自分は針の筵にいた。この子を傷つけてはならぬ。自身などより圧倒的な上位存在。けれど自虐さが貼付された笑顔に、もしやこれほどの佳人にも自分と似た部分があるのでないかと悟った瞬間でもあった。
「別に何も?」彼女は目線を落とす。「今日ちょっと居場所なくてさ。予定もないし。いいじゃん。遊んでよ、おじさん」
「でも自分、男」
「そんなん気にしてたん。知ってるて」
「でも男だし」
「やらしいなぁ。おじさん襲ったりせんでしょ」
「しない。絶対にそんなことはしない。しません」
「ほら。ならいいじゃん。お腹空いた。あ、まず充電器。てか家行くならピザ食べたいピザ。ねえおじさんピザとってよ」
今なら遠慮を知らぬ言動を咎めたのだろうが、俺にはこれが綸言と聞こえた。
並んで歩くあいだ互いに言葉はなかった。田舎道を無言で抜けていく自分たちを俯瞰したならそれはどのように映ったか。通りがかる者は無かった。そばのお宅からにんにくの香ばしい匂いが漂い「うぅわお腹減る」とチハルが漏らす。道中、俺らにはこれだけだった。いよいよ薄暗くなる世界に田んぼの水が跳ね返り、姫の甘い体臭が幾度か混じる。懐かしくあった。女性との交わりのない俺からして初めての香りであるはずだのに、遠いどこか、ずっと昔のいつか、このフェロモンを浴びたことがあるように錯覚した。この時間がずっと続けば良い。この俺が女性と並び歩く。普段なら心中穏やかでなかったろう。俺の心は凪いでいた。俺俺俺たる主張の強い自我はどこかに消えた。世界は美しく穏やかであることを知った。こんな俺にすら開かれてあるのだと知った。田畠の向こうに我が家の影が見え蜜月の終わりに頭頂部が熱くなった。いつかまたこうして共にあってくれるだろうか。
「マ? 戸建てじゃん。ぜったい汚い系の四畳半だと思ってた。ええ、子供部屋おじさん? 実家は嫌」
「実家だけど、親、いないから。もうずっと前に」
「あ、ごめんおじさん」
他者を慮れる良い子じゃないか。
一時が名残惜しく鍵を取り出すのに手間取る。チハルは荒れ放題の庭を散策する。宵五つの黒に覆われチハルの表情は読み取れない。よく溶け込み、この夜が姫をどこかに攫っていくのでないかとまたも俺の肌は粟立った。
「ねえおじさん、表札は?」
「ない。ないです、昔から」
「名前なんてーの?」
「江川です」
「名字かよ。どんな字?」
「江戸の江に、川、三本川」
「ふぅん、江戸の江に三本川、江川」
ようやく戸を開けポーチを点けるとチハルが寄って来て、
「江川くん。お腹減った。早く」
輪郭を露にチハルは笑んだ。
夜を置き去りに施錠する。この子は危なかしい。どうしていつも独り。どうして悲しそうに笑うのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます