三十四歳トーシュルツパニック-17

 出社すると高橋がいなかった。ミスを指摘した上司に楯突き謹慎なのだと。良いお店を聞いてみようと考えていただけに肩透かしを食ったようだ。浮気相手と揉めていると伝え聞いていたから、それが重荷となり溢れてしまったのかも。いま彼はどうしているだろう。別部署の同僚を孕ませてしまい、あとはもう結婚するしか道はないのだろうか。俺には性交渉の経験がない。彼女がいて他と関係を持つだなんてこの先の人生においても俺には一切が無縁であろう。自身を見てとってくれる異性がいてなぜ目移りするか。持たざる俺には理解のできぬ情動である。

 けれどそんな時分にマナからメッセージが入った。それは昼時の公園、開けた梅雨の残滓とも言える湿気に辟易としながらコンビニ弁当をつついていた時だった。

「ちょ金なくてさ」

 泣き笑いのような絵文字の意味するところが俺には伝わらない。金が無いからどうした。それをなぜ俺に報告する。

「p活もとむ笑」

 なんなのだpとは。

「こないだの手錠使ってもいいよ草」

 “草”は”笑”の代替記号だと聞いた。笑っているのか。嘲笑っているのか。自身が金欠と打ち明け俺が狼狽える様を見てほくそ笑んでいるとでもいうのか。

「わかん? お手当ってこと」

 意味がわからない。なんの手当だ。俺がいつこの女を労使した。

「マ? 伝わん?」

 この稚拙な文章で伝達を図ろうとしていたことに驚嘆する。

「意味わかんかわちい草」

 意味わかん? 意味がわからないのはこちらのほうだ。コミュニケーションとは他者とわかり合う行為であり自他との境界を拡張する所作である。平たく換言すれば繋がりだ。この言葉遣いのどこに伝達の意図があるというか。

「意味わかんは。難しいのよくね」

 どういうことか。

「猿のグルーミングみたいなもん。ウチラ同類ジャンネって確認し合う場なんよ。プライベートのコミュニケーションって」

 良くわからなかった。

 けれどやりとりを続けるにマナは、体を貸してやるから代わりに金をよこせと言っているらしい。

「やっととかマ?」

 そういう援助交際みたいのはよろしくない。たしかに俺には男女経験が無けれど、性を安売りするような所作は世間的に全く好ましく無い。それだけはわかっている。即刻やめるべきだ。

「意味わかん。説教うっざ。どうせDTの癖によ」

 それから返信が無くなった。

 女性というのは一概にこういうものなのか。俺が考えているほど性は高尚でないのだろうか。売春は有史最古の商売と聞くが現代の価値観においてもそのように安いものなのか。

「え、それはさすがにどうかと思うっす。逆に江川さんの品性を疑います。他の人にそんなこと言わない方が良いですよ」

 帰りしな、エントランスで出会った鈴木くんに「女はどうせ性を切り売りして小金を稼ぐ生き物なんだ」などと漏らしてしまった。そんなわけないよな。それならば我が愛娘もその気があるということになる。そんなはずはない。朝山さんがそんな売女めいた真似をしていると思うか。絶対にない。マナがそうだっただけだ。老醜あかねが卑しかっただけだ。そう思っていたい。俺はこれまで女性と関わることをしてこなかった。だから幻想を抱いていたのやも知れぬ。みな品行方正であり清純なれどパートナーにだけは開放的な性衝動たるといったような。性差はあれど同じ人間である。社会的な節度はあろう。しかし特定の個人にだけそうだということはあり得ないはず。このことに気づけただけ俺は成長したと思いたい。マナは高橋と同類なのだ。チャンスがあれば誰にでも下半身を震わす本能のけだもの。発露としては資本主義的な欲求と刹那主義的なそれとで相違もあるだろうが、まんを開くかちんを勃てるかの違いでしか無い。社会的動物の情動は理性に咀嚼されたあとの発露でないとならない。俺は奥底の浅薄さをそのままに晒したくは無い。

 しかしそのような人種が一定数いるのであれば、そうでないというだけで俺の目には清廉たる。朝山さんは俺のことをどう思ってくれているだろう。チハルのためになどとはもう思わない。俺自身の想いとして朝山さんがほしい。伴侶としてこれほど最適な方もいまい。

 朝山さんはホテルビュッフェを所望してきた。みな対面すれば感染症の話題ばかりを俎上に上げ、そうでなければ連日の猛暑か、不穏な国際情勢か。外食産業への営業自粛要請が発令されるからと、うだる暑さの下スーパーのチルド冷麺を啜る俺はその誘いに二つ返事で応じた。

 思うより人の出がある。もともと俺自身が外食に出るような性質でなかったから気づかなかったが、テレビで映し出されるより市井の動きは制限されていないように感ずる。俺たちと同様いつ再開するかも分からぬ豪華ディナーの食い納めなのやも知れぬ。チハルを置き去りに摘むカトラリーの輝きに罪悪感がじわりと首をもたげた。チハルの今晩は素麺だった。トマトときゅうりを切った。茹で卵も乗せてきた。けれど先週も素麺だった。先週はカクテキを乗せた。今夏一週間ぶり二度目の素麺。対して俺は十年ぶりのローストビーフ。ああ、なんでチハルを連れて歩けない。俺の努力が足りていないせいでないのか。だからまだ他人同士なのでないか。お父さんと呼び親愛をくれるならば毎週でも豪華ディナーを用意するのに。

 今日の朝山さんには後光が無い。連日の猛暑で神性も薄れたか。会話の時だけきらっと瞳に光が差すが、食事を口元に運ぶ際には陰が入る。愛娘にすら無償の愛を向けられぬ瑣末な自己が透けて見えたか。醜い俺への愛想が尽きたか。全きを肯定くださる大慈悲たる朝山さんはもう居ないのか。なんだか会話も続かない。赤身肉の隙間からナイフの先が覗くたび彼女との距離も少しずつ離れていく。彼女の下顎がごりごりと脈動し、俺の中の女神像も千切られ潰されていく。髪の毛束から迸っていた色気も今宵の朝山さんには感じられない。

 時勢は新型の感冒ばかりであった。外食産業への営業自粛要請が発令されるからしばらくの食い納めであるはずだ。これはデートでなかったのか。

 チハルだって恋をした。

 チハルは相変わらず家から出なかったからそれはもちろん対峙してのものでなく、部屋でテレビを観ている際に、一言、

「あ」

 と言ったのだ。彼女はそれからしばらくして、

「何でもない」

と。

 チハルの瞳が讃える光と先日朝山さんが向けてくれたそれとは同種であったと俺は白痴にも蒙昧していた。しかしどうだ。俺だったのだ。俺が朝山さんに恋をしていたのだ。フィルターを逆から通し、俺は朝山さんの感情を都合良く見ていたのだ。同じ空気を吸っているだけでなんだか甘酸っぱくなり、けれど不思議と意識は冴え、咀嚼音すらがくっきりと耳に残る。

 自覚し、俺はいたたまれなくなって思わず席を立ってしまった。胸焼けを起こしでもしたかのように腹の奥がぐるぐると波打ち、気を抜くだけで漏れ出そうな酸素を懸命に咥え込んだ。紛らわすべくよそったカプレーゼなる冷やしトマトは結局皿から取りこぼし、手の震えは足先にまで伝播し、俺はその赤い果肉を靴底でぐりぐりと捻り潰した。どうか今の間だけ誰も俺のことを見ないでいて欲しい。二酸化炭素を大きく吐き出し、席へ戻る我が身を追い立てるように果汁の足跡は追従した。

「もうお腹いっぱいなの?」

「え?」

 吐き出された声音はいつにも増して不恰好であった。

「だって、お料理なにも取ってこなかったの」

「や、ちが、あ、なんでだろう」

 いつもみたくぼそぼそと喋りニヒルな厭世でも気取れば良いじゃないか。駄目なんだ。どうあっても言葉が自意識を通し漏れていく。適当な誰かでは無いのだ。目前の朝山さんは女性たり、十一年にもおよぶチハルへの思慕のすぐ真隣に、今日のこのたった一瞬で並び立ってしまったのだ。

 そうだからこそ俺はチハルの強さをも知った。

 少なくとも今日の朝山さんには俺に対する恋慕など一切ない。

 チハルの懸想は画面の中に向く。リターンの無い愛だ。どうしてこれに耐えられる。

 いまこうして向かい合っている俺とても彼女の恋が俺を掠めないというだけで背景など何ら目に映らぬというのに。

 俺はただ見ていることしかできなかった。朝山さんは何も聞いてこなかった。時折ちらと目線を寄越すも俺らの目と目はぶつからなかった。

 俺の人生は肥大化した自己と言うに尽きた。いつだって俺俺俺から思考は繰り出された。自意識という巣穴に閉じこもっていさえいればどうにかなるだけの歩みだった。しかして今はどうだ。俺は虚空にいる。空間には俺と朝山さんがいる。俺は俺を見ている。ダサく幼い自分を見せ続けられている。朝山さんにも見られている。

 朝山さんはケーキを丁寧な手つきで一口大に切る。以前とまた同じように刺され差し出されたそれは、以前とは違いいつまでも口中に残った。同じフォークが朝山さんの唇に触れる光景から目を逸らせぬうち、すぐ近くにちはぴみさんがいたことすら今の俺の意識では全く感知し得なかった。

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