三十四歳トーシュルツパニック-16

 世界的に悪性の感冒が蔓延しているようで我が社にもリモートワークの波が訪れた。この部署では顧客データを直接的に管理せねばならぬから導入率がまだ低いけれど、俺だけ数日ほど在宅勤務を命じられた。どうせ俺くらいなら欠けても大した痛手にならぬといった理由であろう。捨て石にちょうど良い路傍の塵芥だよ俺は。

 平日の昼間から自宅にいると自分が何か特別な人種にでもなったかのように感ずる。チハルの昼食も、今日は温かいものを用意してやれる。いつもは作り置きを冷蔵庫に入れておくだけだったもの。

 朝、チハルが珍しく、

「何、なんでいるの」

 と問う。

 それだけで気分が舞い上がった。久しぶりだよ、キモシネ以外の言葉を耳にするのは。

 さすがに勤務中であったから冷凍チャーハンを温めるだけではあったが、今まですまなかったねチハル、数日なれどお昼にも温かいものを食わしてやれるからね。

 資料編纂だなんて退屈な業務をこなしているとわりといろんな音が耳につく。社内であればキーボードを叩く音や太鼓持ち上司の怒鳴り声が氾濫するところだが、ここでは車の音や工事機材の音など生活に根ざしたノイズが嫌でも届く。俺は今まで自意識だけで生きてきた。その外に他者の営みがあることをいま初めて実感できている。観測範囲の拡張がコミュニケーションの一義であるならばこれまでの俺は社会性動物では無かった。この年であれ気づけたことに感謝したい。いま無性に誰かと対話してみたいと感ずるこの衝動は遅すぎる悟りゆえのtorschlusspanikということか。

 マッチングアプリはアンインストールした。二度とやることはないだろう。けれど皆が手を出す理由もわかる気がする。誰もが飢えているのだ。俺もチハルや朝山さんとの仲が円満となればまた脳のメモリを拡張すべく飢餓感に苛まれるのやも知れない。部内の同僚達と屈託なく会話できるようなれば、また数年前までの味気のない人生に立ち戻るのやも知れない。けれど多くはいらない。年ごとに集積率を増やしていく必要はない。俺には俺の適性があり、俺は俺をこそ磐石にできれば良いのだろう。周りにいてくださる方々をまずは大事にしていこうではないか。

 マナとのやりとりは相も変わらずだらだらと続いている。意味のある内容には思えない。けれど俺ごときに時間を費やしてくれる僥倖に感謝したい。や、俺が彼女の時間を潰すため利用されているのか。どちらにせよありがたいことに変わりない。

 朝山さんとは一度ご飯へ赴いた。きちんと鼻毛カッターを用いたしシャツにもアイロンをきかせた。靴はチハルの見立てた「雑誌のこれと似ていて安いの」という白いのを履いた。この時も朝山さんは背が伸びていた。腰位置の高い黒色のスカートが歩くたびひらめく。いつもは紺のズボンじゃないか。後ろで縛った髪が揺れるくらいじゃないか。彼女はどうしようもなく女性であったし俺は相対的に子供だった。覗き込む瞳が七色にきらめくたび、対して俺からは暖色が失われ、指が毛先を摘むたび、俺はいま平静通り歩けているだろうかと狼狽した。

 気の利いた店など何ら知りもしないからして数年も前に会社で利用した居酒屋に予約をしておいた。食べ放題の品数が豊富で上司方の受けが良かった。高橋のような遊び人ならもっと洒落た店を知っているやも知れない。今の関係性であれば教えてくれたかも知れぬが、あのコエガワが異性と食事だなどと吹聴される未来は避けねばならぬ。鈴木くんならばどうか。親切に複数箇所をリストアップくださるだろうが、彼にも朝山さんのことは秘しておきたかった。

「わりと良いお店知ってるんじゃん。ごめんね、ちょっと意外」

 揚げ出し豆腐を取り分ける箸先がついと動くにつれ、間仕切りからこちらがかき乱される。良く見れば爪に光り物が取り付いており、それがキラリと反射するたび袖をこぼすまいと当てられた左手が角度を変える。首元にはほくろがある。知らなかった。それが毛先から現れ、隠れ、俺はいやらしいものでも見とめたかのようにグラスを引っ掴んだ。

「はい、これ江川くんの。お海苔のあげる。生姜のほうもらうね」

「あ、ありがとう」

 受け取る小皿を机に乗せると出汁の中を刻み海苔が泳ぐ。見えない向こうからの喧騒を背に受け、しかし朝山さんは静穏たる。ただ表情だけが目まぐるしく変わる。恋を湛えるあの日のチハルと同じようでいて朝山さんはいたいけでない。その瞳の熱量は毒だ。固く閉ざされてあった以前の俺ならば一瞥で虜と成り果てたろう。

「まだ時間早いよね。もう少し飲み直さない?」

「あ、俺チハル心配だからこれで」

 小説を隠されはにかむように笑んでいたあの子がどのようにして現在の女性性を獲得したか。

 この日、上機嫌になり購入してきたバナナラテをチハルは残さなかった。珍しく無言で平げ、今日は久方ぶりのノーキモイシネデーとなった。姫は最近筋トレを日課とするようなり、青白くやつれた頬から昔の赤みが色を覗かせ父としてはそれだけで胸のつまる想いだった。バナナはたしかストレッチの味方のはず。んん、コンビニのバナナラテだと砂糖が多いだろうか。でも飲んでくれたのだから結果オーライ。内面なら俺が育んでやれる。体調の管理は親にどうこうできる範囲でない。美味しいものは食べさせてやれる。しっかりと歩み生きてほしい。

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