三十四歳トーシュルツパニック-15

 あかねクソババアがどこかに電話をかけ、ブースの戸が勢いよく開かれ登場したのは朝山さんだった。まさか朝山さんが悪の親玉か。少しでも理性が残っていたのならばそう感じていたのだろう。けれど朝山さんを見てとったその時の俺には女神に映った。事実そうだった。朝山さんは「やっぱり江川くんだ」とひとりごちると老醜あかねを睨め付ける。

「あなた、何」

「いやお前が何だよおばさん」

「どう見てもあなたの方が年上じゃない」

「は、意味わかんねえし、うざ。……ちげえし、なんかババアが口出してきてさあ」

「江川くん、この人知り合いじゃないんでしょ」

 朝山さんが目をくれる。この人の所作はなんでこうも美しい。真一文字にきゅっと結ばれる唇に普段と違いふわりと下された髪。かつて染み入ったトロの脂のごとく心気がするりと解けていく。見てくれる人がおり気にかけてくれる他者がある。俺の人生は幸福でないか。

 あかねがスマホを相手に喚き散らす。言葉辿々しく俺は朝山さんに事情を話す。分かってほしい。朝山さんにも誤解されたくはない。自分の言葉を持つというのはなんて難しいことか。俺という人間を正しく伝えたい相手が世に二人もいるというに、なんで俺は自分を諦めていたのだろう。気づけば涙は引っ込んでいた。戸は開け放されたままだけれど通りがかる誰もこちらを振り向きやしない。あかねももう俺らを介さず電話口の向こうとやり合うばかり。見てとりつながりをくれる存在があって俺はなんで人生をサボっていた。まさかチハルも同じだったのでないか。今は立派な大人となった朝山さんだってあの頃は同じだったのでないか。マナや鈴木くんや高橋だって昔はそうだったのでないか。触れ合いやつながりへの欲求に悩み社会性を獲得するのであれば、チハルはやっと大人になったところであり、俺は今日、新たに生まれたのだ。

「江川くん」

 朝山さんは俺の目をしっかりと覗いて言葉をくれる。いつだか連れられて行ったスナックのママさんの所作に似て瞳の奥に何色もの気品が揺れ動いていた。

「大変だったね。もうこのまま出ちゃお」

 街の明かりが覆い被さり空は不明瞭な黒に塗られていた。やはり夜は履き潰しのスラックスの膝のごとくの掠れ具合にして星々なぞは目に入らない。下を向けば明るいからだ。街々の灯りがあり、光を求めて空に馳せる必要性なぞ無い。一太陽光度の朝山さんが隣におり天体なぞ目に入ろうか。

 ありがとう、これでチハルを心配させることもない。俺は明日からも父でいられる。

「江川くんさ、アプリのメッセージ、なんで既読スルーしたの」

 逆光でうまく可視化できなかったけれど彼女の目線は間違いなく俺を向いていた。何故と問われてどう説明すれば良い。その答えを俺は持ち合わせていない。そんな俗なものをやっていてほしくはなかったのだ。しかしどうしてだ。神聖視してしまっていたからか。俺というバイアスを通して見た朝山さん像を、俺と同格たる下卑た市井の一人と貶めてしまう恐れにおののいたからか。この想いは良いとして、朝山さんを俺なぞより上位に考えていたこの思考を、果たしてどう説明すれば良いと言うのか。

「なんか、びっくりしてるうちにタイミングが掴めなかったというか」

 この言葉もどうにか自分の言葉で紡ぎたかった。

 ぶかぶかスーツの客引きが今日は見当たらない。週末で無いからか集団で騒ぎ立てる連中もいない。しかし方々から流れる信号機の音に俺の言葉がかき消されるので無いかと臆病ながら恐々発することとなった。別に嘘を吐いたわけでもないのに先程の嗚咽が遅れてこみあげ空咳がついた。

「江川くんてシングルだったんだよね」

 街、駅、繁華街。ギラギラ騒がしい光線の中にあって色温度ばかり高い俺の隣を、いつもより少し背の高い朝山さんはよくも歩いてくれる。声は喧騒の中にあって失われない。立ち昇るフレアが耳を犯し恒星風は心をかき乱す。

「最近見なかったよね。やっぱ忙しかった?」

 間を持たすように言葉をくれる。同じ空間で思春期を過ごしどうして俺はいまやっとだったのか。俺は自分のこれまでが本当に不甲斐ない。

「あの、もうやめようと思ってて。アプリ」

「うん」

「そしたら見つけて」

「うん」

「びっくりして勝手に気まずくなった」

「なんで?」

 なんで? そんな俗なものをやっていてほしくはなかったから。これ以外の言い表し方を俺は持ち合わせていない。

「なんでかと言うと」

 対話がつながりの第一歩だと俺は知った。しかし朝山さんは振る舞いで語る。俺にはできない。肩口の落ちたシャツが彼女の細い腕をより際立たせ、見やるたび風を受けゆらめく。鞄をぶら下げる俺の左手はじわりと湿る。

「聞いてほしく無い。あ、恥ずかしいから」

 朝山さんはまた目をくれる。店に立つ質素な姿しか知らぬ俺にとってもはや別人と映る。女性というものはよくわからない。俺の地磁気を目線が狂わす。

「助けたの貸しだからね。今度ご飯おごってもらうから」

 ああ、視界が滲む。カードさえ持てば仲間に入れてもらえると思っていたあの頃の俺に聞かせてやりたい。朝山さんはいつだって俺のほしい言葉をくれる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る