三十四歳トーシュルツパニック-14

 あの日の晩御飯はコンビニ弁当と相なった。白身魚ののり弁に餃子。チハルは残した。そうだよな、コンビニの惣菜なんかでごめんなチハル。今度こそ本気一本勝負の棒餃子を食わしてやるからな。

 チハルと初めて出会ったのはもう十一年も前のことになる。怒鳴り散らしてくるばかりの上司に嫌気が差し昼食にかこつけて近所の公園に避難していた。その時砂場で遊んでいたのがチハルだった。幼稚園には行かなくて良いのか知らん。周りに親はいなかった。一人でずぅっと砂を積み上げていた。そのうち積もった砂に体全体で当たり散らして、何が楽しいか大声で笑っていた。

 そんな光景をたびたび目にした。すぐそこの公団に住んでいるのか。親は共働きなのだろうか。いわゆる待機児童なのだろうか。いつだって一人で楽しんで陽気な感情を爆発させるチハルが俺には神のごとくに思えた。これは彼女の特質か、それとも幼さゆえか。俺には感情を外に放出する術がない。上司の理不尽に晒されるたび彼女を見に来た。俺の陰気すら吸い取ってくれる気がしたから。

 やがて季節がめぐり、ランドセルを背負うチハルを見かけるようなった。この子の名前を知ったのもたしかこの頃だったはず。ベンチに置きっぱなしのランドセルに高橋チハルと書いてあった。マジックインキの端々滲む様になぜだかこの子の奔放なメンタリティが透けて見えた気がしていた。俺は相変わらず職場にしがみついていた。一応は専門職であったから懲戒を受けなかっただけなのかも知れない。飲み会だなんてイベントはいつも断っていたし、同僚からの問いかけに満足のいく返答ができたこともない。とりあえず放置しておいても一定の歯車として機能する存在、それが俺だ。社会人というよりかは部品に近い。俺も感づいてはいた。会社でのありようとして一個人と見做されていないことには。しかしこれで給料が支払われるのだ。耐えるだけで良い。周囲からの暴言に耐えていさえすれば一日が終わる。そうして一ヶ月が経てば給金が振り込まれる。俺のような人間にはこれが最適なのだ。けれどその営みのなか、ずるりずるりと、俺の中の何かが削れていく現状にも気付いていた。俺はそうと割り切るには弱い人間だったのだ。だからこの子の親になってみたかった。

 俺が高橋になってこの子にお父さんと呼ばれる日常が来れば俺は壊れることなく社会の一員になれるやも知らん。その笑顔を向けてくれる先が俺であってくれたなら俺はこの先どんな圧政にだって耐えられよう。掛け値も凛気もない根源たる情動を、どうかこの俺にも浴びさせておくれ。

 そうしてもう数年が経ちチハルは公園に顔を出さなくなった。俺は相変わらず昇進せぬままだった。月百五十時間ほどの残業に不平も漏らさず付き合った。やがて上司のお小言の矛先は後輩に移っていった。耐えていさえいれば良かった。変わらぬ毎日。変わらぬ責苦。来る日も来る日も試薬を計量してさえいれば良い日々。それで俺の人生は回ったのだ。けれど俺たる人間のキャパシティはそれが擦り切れ上限だったのだ。たまに強制参加の飲み会だなんてものがあった時なんかには帰って盛大に吐き散らした。なんで給与も出ないのに拘束されねばならぬ。俺だなんて人間には昇給も望めぬ。我が国ではしがみついていさえすれば解雇なんてされぬのだ。どうせ俺には伴侶なんて来ない。生きながらえるためだけに仕事へ行き金を稼ぐのだ。

 ある日ジャージを羽織り自転車にまたがるチハルを見かけた。女の子の成長は早いものだ。もう俺の身長とそれほど変わらない。中学生になったはずだが平日の昼間から何をしているか。まさかいじめがあって通いづらい? そんなチハルをたびたび見かけた。気だるそうにペダルを踏み込む表情からはあの日の笑顔は読み取れない。だいたいがジャージ、だいたいが独り。たまに制服を着ていたとしても、胸元は大きく開きリボンは垂れ下がり、やはりあの日の姫とは真逆にあった。どうした、何があった。気にかかれども俺は何者でもない。ただすれ違うだけの第三者。あの子の人生に俺はいない。孤立しているのか。悪い遊びを覚えて夜更かしばかりなのか。心の乱れが衣服に出ている。けれどそれは俺もだ。スーツをクリーニングに出したのはもういつのことだったか。毎日同じネクタイ。どうせ営業職でないからシャツにアイロンをかけることすら止めた。俺がこの子を思う資格はない。

 二度話しかけられたことがある。

 一度目は、チハル、中学三年生の秋。

 公園脇のイチョウがしっかりと黄に染まり、落ちた葉を踏み締めベンチまで歩いた靴越しの感触は今でも思い出せる。擦り減った底から伝わる足元の滑らかさに自身の怠惰を感じた日だった。

「お兄さんいつもいるよね」

 珍しく公園まで進入したチハルは目の前に自転車を停めた。間近のチハルを見て俺は安堵した。この子はいじめられてなんかいない。肌が綺麗だもの。気だるげな表情なれど瞳にちゃんと生気がある。かつての俺とは違う。

「君もいつも、遅刻してますね」

 思ったより声が大きくなり自身に面食らった。そういえば会話をすること自体が久しぶりだった。

「はにゃ?」チハルの口角が少し上がる。「やっぱ気付いてた。いっつもここで一人だよねお兄さん。いっつもここでサボってるん」

「サボってるわけじゃ」

「はい言い訳。あんま仕事できるかんじに見えんくない?」

 なんだこの言葉遣いは。初対面に関わらずこの明け透けな感じは。俺の苦手なタイプだ。よく見ると眉毛が整っている。まだ十四、五くらいだろう。今からそんなビッチな立ち回りで今後の人生をどうするつもりなのだ。学校へ行けとは言わない。学校だなんて糞の掃き溜めだ。もっと有意義な過ごし方もあるだろう。だとしても、いけない。これはいけない。こんな齢から男をたぶらかすような生き方ではこの先絶対に後悔する。

 しかし自分の言葉を紡ぐのだなんていつぶりだろう。この子は人生の階層として俺より高みにいるのやも知れない。だけれど今は。これだ俺の求めていたものは。へつらいも侮りも感じられない単一の感情。俺の人格を認めてくれたうえで言葉をくれる。御仏は仮のお姿にておわすと言う。この子がそうなのでないか。高橋チハルとして俺を導いてくださるのでないか。

 この時には対面の緊張からなんの思案もできなかったけれど思い巡らすたびそう感じるようなった。全き無量寿の大慈悲が恩寵としてあるのならば俺は生の何に怯える必要があったのか。

 二度目はその翌年の春ころだった。チハルはいつも私服だった。肌の見えるチャラチャラした衣服ばかりであり実父は咎めないのだろうかとそればかり思っていた。ベンチの藤棚に羽虫どころか人も吸い寄せられ、この季節は決まってゴミ箱横の段差に腰をかける俺。溢れる空き缶の山越しにチハルを見やるに、やはり遅れながらでも学校へは通っているようでその点は安心していた。

 久方ぶりに間近で見えるチハルの目鼻立ちには以前よりくっきりと陰影が映えていた。やはり女の子。成長が早い。

 前回は挨拶くらいで終わった。今度こそは気の利いた台詞でも言わねばならぬ。この子はこの世の姫だ。かしづき楽しませる義務が俺にはある。

「進学おめでとうございます」

「あは、やっぱり覚えてくれてた。おじさん久しぶりね」

 相変わらず距離が近しい。けれどそこに侮蔑は無い。この子は俺に無理を強いない。この子は俺を人間と見て言葉をくれる。気後ればかりしていちゃあ駄目だ。自分の言葉で、自分の気持ちをきちんとお届けいたすのだ。

「相変わらず遅刻ばかり、ですね」

「おじさんだっていっつもここいんじゃん。そろそろ昼休み終わるんじゃない?」

「大丈夫。まだもう少し」

「おじさんマジ公園の主ね」

 十年前のあの大輪は咲かなかった。目は窪んでいない。どこに出しても恥ずかしくない美人だ。他者を見下さない立派な人格者だ。けれど笑むたび浮かぶ翳りはどうした。

「ねえ変なこと言うけどさ」

 自虐の張り付いた笑みを見やる俺の眼前を土蜂が横切り、ああ俺と彼女との距離はこれでもまだ遠くあるのだと思わせられた日でもあった。

「夜、暇でしょ」

 だから俺は娘に迎えざるを得なかったのだ。

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