三十四歳トーシュルツパニック-13

 トイレで鉢合わせた鈴木くんに「どうっすか」と問われ、マッチングアプリのことだとはわかっていたが生返事でしか返せなかった。朝山さんからは「申請ありがとうございます。間違っていたらすみません。もしかしてお知り合いの方ではないですか」とメッセージが入った。既読マークはつけてしまった。しかし返事ができないでいる。朝山さんのことはなぜか神聖なもののように考えていた。どうしてだろう。こんな俗なものをやっていてほしくはなかった。色んな男とデートしたのだろうか。あの綺麗に微笑む口いっぱいに男性器なんかを頬張って、汚したのだろうか。アプリなんかで男を漁っていてほしくなかった。朝山さんとの性差になんて気づきたくはなかった。

 しばらくドラッグストアへは行けなかった。店屋物が多くなった。流行病でテイクアウトの取り扱いが増えたからこれを言い訳に贅沢してしまった。先般はアヒージョだかいうのを買ってしまった。おいしかった。チハルもきっと同じように感じていたと思う。しばらく雨が続く。今度はこれを免罪符に買い出しをサボるのだろう。

 なぜかマナとのやりとりが続いている。

「マチアプ始めたん? いい人おった?」

 やっと二人目と会うかどうかといったところ。

「Sい子おったらええね。手錠使ってもらいなね」

 あれは飽くまで防犯用だから。

「なわけ」

 マナもちはぴみさんと似た不思議な文体を使う。しかしちはぴみさんは一角の人間だった。マナもそうなのだろうか。文体は精神の顔つきであると述べたのは誰だったか。たしかにマナとの距離感は心地良い。陽キャだ陰キャだなどとカテゴライズし苦手に考えていた自分のことが恥ずかしくなる。

 もう退会してしまおうと考えていたわりには気づけば惰性でアプリを続けてしまっている。朝山さんには何も送れていないくせに。

「急だけど助けてくれませんか」とメッセージが入っていて、仕事終わり、夕飯の買い出しに歩き回っていた俺は歩を止めることとなった。デリバリーで人気の本気一本勝負の餃子屋さんだなんて店を探し回っていたのだが、番地ではこのあたりだのに、おかしい、カラオケ店くらいしか目につかぬ。チハルにおいしい棒餃子を食べさせてあげたかったのに。

 はじめまして。メッセージありがとうございます。急にどうされたのでしょう。

「いま時間空いてますか」

 空いてはいます。

「助けてください。いま駅前にいます」

 あかねさんというらしい。プロフィール欄は全て空欄だった。人柄も何も分からない。けれど何かに急かされているらしい。もしかしたら悪虐非道の輩に暴行を受けているのやも知れぬ。警察を呼ぶいとまも無く止むを得ずアプリで助けを求めているのやも知れぬ。チハルに美味しいものを食べさせてあげたかったのだが、さすがにこれを見過ごすほどの人非人ではない。どうされたのですか、動かないで、すぐ向かいます。性悪説だなんて信じていなかったのだ。

 あかねさんは歳の頃四十程度に見えた。くすんだ金色の髪は方々に飛び跳ね、季節外れの厚手のカーディガンは黒く毛羽立っていた。息急き切って駆けつけた俺の腕をとるや否や、「私さ、まだ高校生なんだよね」などと言い放ちどこかへ連れ歩く。高校生? 我が娘と同年代? そんなわけないだろう。俺よりも年上にしか見えぬ。それよりも暴漢はどこだ。急を擁していたのではないのか。

「私さ、高校生だからね。いまこんなところ見られたらお兄さんヤバいと思うのね。ほら、やっぱ未成年と腕組んで歩いてるのって犯罪じゃんね」

 腕を絡ませてきたのはそちらだろうに。この人はいったい何から助けて欲しかったのか。

「とにかくお兄さん見られたらやばいと思うのね。とりまそこのネッカフェ入ろうか」

 いったいこの人は何を考えているのか。女性というのはやはりこういう存在なのか。俺の人生で女を理解できたことなどついぞない。娘すらそうだ。この人も一見けばけばしいだけで女学生なのか。だとすると俺にその行動原理を理解することなぞできやしないのでないか。

 ネットカフェだなんて初めて入ったけれど間仕切りがあって存外に心地良い空間かも知れぬ。そこかしこから他者の息遣いが漏れ聞こえ、けれど自身のことは誰も意に介さぬ。社会の一員足りたいのにへりの方でちらちらと安寧だけ享受していたい俺なんかにぴったりのスペースでないか。

 しかして今日は違う。目の前の肉叢が憚らぬ声で高校生と喚き散らすたび俺の心は、このクソのボロ上衣のごとく粟立つ。隣のカップルの囁き声は俺らのことを噂しているのでないか。まさか俺のことを未成年淫行クソ野郎だなどと思ってしまっているのでないか。誰がこれに手を出すというのか。どう見てもババア。どう見ようとババア。俺は一人の父なのだ。誰がそんな卑劣な真似をするか。

「あのさぁ察し悪いじゃんね。財布、持ってんでしょう。は? 何? 聞こえないんだけど。もっと大きい声で喋ればいいじゃん。高校生連れ込んだ変態だってことバレたくないの。まじバカじゃんお兄さん」

 これが美人局というやつか。人の善意に付け込むとはどう人生を積み上げればこのように育つのか。

「キモ、マジ早くしてくんない? 私も鬼じゃないしさあ、別イチゴでいいかんさあ」

 意味が分からない。この女の言動が。せめて日本語を喋れ。俺はただ人を助けようとしただけなのに。「他者のことに気づけるのは江川くんの優しいところだよ」朝山さんがくれた俺の唯一の美徳。それを実践しようとしただけなのに。

「ねえ、早く」

 俺はただ助けようと思っただけで。

「聞こえない。何?」

 やましいことは何もないです。

「気持ちわりいな聞こえねえよ」

 なんでだよ威圧してくるのはそっちじゃないか。悔しい。こいつの方が悪なのは明らかなのに上手く口が回らない自分が悔しい。こんなクソババアに喚き散らされるだけで自分が掻き乱されていくのが悔しい。頭の中でなら饒舌だのに自分の言葉を持ち得ない俺自身のことがひどく悔しい。これは罰なのか。他者とのコミュニケーションをサボってばかりいた営為の先がこれか。だとするとあんまりじゃないか。解放されるにはいくらか支払うしかないのか。俺はもう三十四歳だ。言い負かすことすらできぬのか。俺は男だ。黙らせることすらできぬのか。怠惰な生の結果がこれか。

 気づけば目の周りが熱くなっていた。これはなんの涙だ。自身の行いが正当に評価され得ない涙か。よく泣かされてきた人生ではあれどこの手の発露は初めてだった。上手く対話もできない自分がこれまで悔恨を覚えずやってきたということは、つまり深く立ち入ろうとしてこなかった表れというものだ。情けない。泣きたくなんてないのに。こんなクズなんかに。

「俺は、俺は」

「汚っ、キモ、何」

「俺、俺は、俺、俺さぁ」

「意味わかんない」

「俺ぇぇぇぇぇぇぇぇ。ただ助けようとさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 駄目だ。止まらない。言葉もうまく紡げない。

「キモいキモいキモい。なんなわけ。マジキモいんだけど」

「俺別にっ。助けようとさぁぁぁぁぁぁ」

 こんな奴に騙されて俺は捕まってしまうのか。だって助けてって言うから来ただけなのに。やましいことなんて何もない。高校生だなんて知らなかった。そもそも高校生になんて見えない。捕まったら勾留させられるのだろうか。そうしたらチハルと会えなくなる。引き離される。チハルお願いだ。信じてくれ。俺は破廉恥なことなんて一切考えていない。高校生相手に淫行を持ちかける低劣な輩ではないんだ。どんなそしりを受けたって良い。けれどチハルにだけは知られたくない。チハルに誤解されるくらいなら死んだ方がマシだ。もうお金でもなんでも渡してしまおうか。どうせ目当てはそれだろう。世の中は理不尽の悪意に塗れている。知っていたはずじゃないか。だから強い父になろうと決意したではないか。

 目からは止めどなく水がこぼれ落ち、反論しようと口を開けば代わりに空気だけが飛び出した。あかねババアは眉を顰めて絶句する。お前らみたいなのが弱男と呼ぶ存在が俺だ。笑えよ、そしれよ。危機に瀕して嗚咽を上げることしかできぬ羽虫のような存在が俺だ。情けない。誓ったではないか。ああ情けない。娘に尊敬される父でありたかったのだろう。この姿は父性以前に男性性としても危うい。もう何者でもない俺は嫌なのだ。嫌なのに、なぜだ。意味ある言葉が出ていかない。

 あかねは道端の吐瀉物に向けるような凍てつく光をくれる。俺の言動の意味不明さを見やってどこかへ電話をかける。ああどうせ警察だろう。あることないこと吹き込むのだろう。被害者は俺だのに自身をそうと偽って。

 しばらくしてブースの戸が叩かれた。警察か。チハルのかわいさが世に知られてしまう。まだあの子と離れ離れにはなりたくないんだ。しかしてそこにいたのは、ああ女神よ、朝山さんだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る