三十四歳トーシュルツパニック-12

 きゅうりの浅漬けが思った以上に美味しくできてしばらくは朝ご飯のお共に困ることがなさそうだ。板ずりだなんて初めて知った。案外と簡単にできるものなのだな。漬物だなんて店で買うものだと思っていたのに、これほど手軽なら作っても良い。小茄子のピリ辛漬け。これは作れそうか? なになに、鷹の爪が要るのか。ああ、酢も無いや。無いけれど、これでずっと自作できるのならばQOLも上がるというものだ。酢なんて自分で買ったこともなかった。他に何で使う。ふむ、ドレッシングの素か。んん、ドレッシングもこれ、さほど難しくはなさそうだ。

 チハルが来るまでは米を炊くことすらしていなかった。朝は菓子パン、昼はコンビニ、夜には定食屋か中食。冷蔵庫に入るものといえば飲み物くらいだった。それがどうだ。オーブンレンジを買うほどにまで成長した。やはり年頃の娘には家庭の味を食べさせてあげたい。たぶん店屋物でもあの子は文句を言わぬだろう。けれど違うんだな。食育という言葉がある。チハルの感性を豊かに導くのは親の役目なのだ。

 いつものごとく立ち寄ったドラッグストアで朝山さんから肩を叩かれた。最近では流暢に会話ができるほどには慣れてきた。朝山さんはよく働く。俺の寄る時間ではたいてい品出しをしている。それから放送で呼び出されレジへ向かう。客の列が途切れればまた売り場へ戻る。俺の今の部署がおままごとに見える。各支店の稼働調整をかけるか、データベースを管理するかだ。肝心のプラットフォームが外注だからあとはパチパチと打ち込んでいくだけで良い。

「きゅうり、使ってくれた?」

「あ、うん、漬物にした」

「お漬物? いいねぇ。私はもう帰ったら疲れて何もしたくなくってさ。そのまんまお味噌つけて丸齧りだわ。さすが家庭があると違うねぇ」

 相変わらず綺麗に笑う。

「だから箱でもらったはいいけどさ、持て余しちゃって。助かったよ」

 今度浅漬けを持って行ってあげようか。こういうやりとり、良いな。生まれて初めてやも知れん。ものの貸し借りだってまともにしたことがない。小学校の頃トレーディングカードゲームが流行った。皆が囲んで遊んでいるのを見て俺もせがんで買ってもらった。けれど俺を相手にしてくれる人はいなかった。初心者向けのカードデッキだったもの。弱かったし。トレードが醍醐味のひとつだったのに、弱かったし。

「お前強いカード無いじゃん。おもんないもん」

 同じようなものを持ちさえすれば仲間に入れてもらえると思ったんだよ当時は。同級生男子はみんなそのカードに興じた。俺だけ遠巻きに眺めるだけ。笑い踊り叫びカードの数値に一喜一憂の集団の端で、口を半開きにうろつき目を細めながらここに俺よ。子供ながらに格差を知った。

 そういえば高橋が避妊に失敗したなどと言っていた。ふいに「俺結婚するかもしんねぇ」などと言い出した時、俺も含め皆で一斉に振り返ってしまった。高橋の口角は片側だけ吊り上がり、その日は珍しくスマホを開いてもいなかった。

「なんかできちゃったかもなんて言ってんの。一回やっただけでさぁ。つうか俺ほんとは別に彼女いるんよ」

 自分の惨めがゆるされるこの空気感は嫌いじゃない。自身のことを棚に上げられるからか、より下位の存在を見て安心していられるからか。「高橋もそろそろ年貢の納め時ってことだな」などと笑う集団の端のほうで、けれどこの時には疎外感なんて微塵もなかった。

 早速試した初めてのドレッシングは案外うまくできた。玉ねぎのみじん切りとみかんの缶詰とを合わせただけだったけれど、甘酸っぱさに何だかお酒が欲しくなった。久しぶりにチハルの顔もほころんだ。酢、いいじゃん。酢飯以外で何に使うんだって思っていたよ。肌ツヤのためにも良いと目にした。最近やつれぎみの娘のためにも料理の腕を上げていかねばならぬ。血のつながりなんかなくても親子だ。何が妻だ、母親だ。理想の家族像を押し付けていただけじゃないか。養子縁組には配偶者が要るからって言い訳にして。俺が母代わりにもなれば良いだけの話だったんだ。

 玉ねぎの影に隠れた果肉が弾けるたび悩んだ過去も少しずつ消えた。警棒もある。手錠もある。姫の健康には人一倍に気を遣っている。巷では新たな流行病が出たと聞こえる。手洗いうがいは徹底している。江川家は安泰だ。あとは娘の学力くらいだ。や、もう姫とは思わず一個人として見ると誓ったではないか。あとはもう一つ、俺自身の意識改革か。口中からみかんが消えた。

 そういえば婚活アプリは消さねばならぬ。鈴木くんにせっかくアドバイスをもらっておいて恐縮だけれど俺にはもう必要のないものだ。ちはぴみさんとはもう一度会ってお話をしてみたいけれど、あれからメッセージが既読にならない。やはり幼児期の親だ。忙しいのだろう。残念だけれど間が悪かったのだ。ありのままの江川を記載しているというのにそれでも定期的に新しいマッチングがある。下駄を履かせているのだからありのままとは言えないのか。ありがたいが、ごめんなさい。俺にはチハルだけがいればいい。

 ようやく探し当てた退会ボタンを押してみたら、今度は「ちょっと待って」だなんてポップアップが出てきた。「ちょっと待って! 魅力的な女性がまだこんなにいるんだよ。本当にやめちゃうの?」顔写真の一覧とともに。

 たしかにみんな素晴らしい方ばかりだ。けれどチハルの比じゃない。チハルの幸福と比べるべくもない。

 だけれど、あれ、これ、朝山さんじゃないか。絶対そうだ、うん、絶対そうだ。あれ、朝山さん。え、あれ。

「最近ずっと仕事ばかりで気づけばこんな歳になってしまいました。タバコとヤリモクは嫌いです。気軽に話しかけてほしいです」

 気づけばマッチング申請を送っていたし退会せぬまま終わってしまった。どう考えても朝山さん。後ろ姿だけれど朝山さん。

 みかんの風味が鼻から抜けつつぷちぷちとはじける感触。歯磨きがしたい。新しい歯ブラシをおろそう。新しいのがあったはず。すっきりさせないとどうにも収まらない。

 画面を覗き込んで狼狽える俺を見やってだろう、チハルが「キモ」と発した。

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