三十四歳トーシュルツパニック-11

 ごめんよチハルと言いながら差し出したフラッペに一瞬間だけ目を輝かせ、姫は「は?」と発した。

「ごめんよチハル」

 姫は拳をきゅっと握った。ここ一年で随分やつれた。さっと揺れる髪からも光が消えた。これも全て俺のせい。元気がないのも俺のせい。口が悪くなったのも俺のせい。学校へ行かれていないのも俺のせい。遅れてきた反抗期だ。俺は父。拒絶されてもこの子を受け入れる。愛しているよチハル。もうずっと君を見てきた。初めて会った日、初めて我が家へ来た日、全てを覚えている。君のことを考えなかった瞬間などひと時もない。本当に大切な俺の娘よ。

 チハルの目前で座して待つ。

「は、キモ」

 フラッペは少し溶けてしまっていたようでその綺麗なストライプは失われてしまっていた。ごめんよチハル。寄り道なんてしなければより美味しい状態で持ち帰れていただろうに。

「ほんと何。キモ死ねマジ」

 ふがいない俺をゆるしておくれ。きちんと成人まで面倒を見るよ。それが親の務め。俺のことを好きになってくれなどとは、もう願わない。お願いだから健やかに育っておくれ。

「マジ死ね。キモい死ね」

 冷蔵庫の低周波音が空間を包む。他にはおまるだけの殺風景な部屋だ。繰り返し読み込まれたであろうカタログの束が床に散らばる。

「寄んなマジ。マジ死ね寄らないで」

 チハルはプラカップを握り潰していた。

「おねがい、来ないでください、ほんとに」

 かわいそうなチハル。

 俺は娘の頬に口付けた。

 思えば彼女は八苦の只中にある。家族と生別し、身体は思うようならず、自由が叶わず、その張本人と顔を合わさなければならぬ毎日。なんという行苦。

 初めてチハルと会った十一年前、あの子は屈託のない笑顔で砂遊びをしていたっけ。我が家にやって来てからこちら、そんな純粋な感情を目にしたか。大輪が色づき華やぐような、根源たる情動を。

 俺が取り戻させてやる。今はこんなことでしか庇護できないけれど俺はきっと立派な人物となってみせる。そうしたら、こんなものは外してやるから。我慢しておくれ。今は。

 俺は買ってきた手錠をチハルの左手首に嵌めた。片方はもちろん収納の土台に。チハルは俺を蹴るような動きを見せ、だけれどそれは右脚の鎖で阻まれた。チハルは泣いた。手錠のガラス玉が外光を反射させちかちかと応じた。ごめんよチハル。まさか人生で二つもの手錠に繋がれるだなんて思ってもいなかったよな。ごめんよチハル。これも全て俺が駄目な大人だったからなんだ。ごめんよチハル。絶対に君が生き良い親となってみせるから、それまでしばし待っていておくれ。

 チハルは泣いた。横で俺はチハルの排泄物をビニル袋に詰めた。

「マジで。死んで。あんた」

 俺が良い大人になればチハルの雑言も止む。俺が自慢のパパとなれば娘も良い子になろう。我慢だ。全てはこの子のためなのだ。

 チハルはひたすらに左腕を振り回す。ああ、そんなことをすればまた脚と同じような痣ができてしまうだろうに。今晩は煮染めを作ってあげるからね。だからもうおよしよ。良い子だから。君が傷つくのを見るのだけは辛い。

 床に打ち捨てられたカップに口をつけ残りを吸い上げてみると初体験の甘味に頬が蕩けそうになった。俺は見逃していない。チハルは絶対にこの呪文コーヒーが好きなはずだ。娘の嗜好は見逃さない。ストローを無理やりチハルの口に差し込む。嫌だ嫌だと言う娘の頬を押さえつけると、姫はああああと声を荒らげた。なんで飲んでくれない。仕様がない。仕様がないから蓋を外して直接流しこんでやったら今度はごぼぉっごばっなどと汚い音声を垂れながら喜んでくれた。ほら、やっぱり我が姫はこれが好きだ。

「好きでしょ?」

 声は臆することもなく自然と出てきた。

「はい、ごほっ、好きです」

 チハルは悦びに震えながら応じる。

「ソイソースのチョコチップがけなんだって」

「はい」

「また買ってくるね」

「はい」

「また買ってくるね」

「ごほっ、はい」

「だからさ、また買ってくるね」

「はい、お願いします」

「違うでしょ。ありがとうでしょ」

 躾を疎かにしてきたこれは俺の問題か。それとも前親のせいか。けれど良いのだ。感受性が豊かなまま育ってくれればこの子は絶世の美女だ。今に大金持ちのイケメンが求婚に訪れるだろう。こちらを何ら気にすることなく咳き込むチハルに俺という存在の受容を感じ取った。早く正式な父となろう。たくさん喧嘩をしてたくさん話をして、いつの日にか連れてくるだろう婚約者を、君に俺の気持ちが解るかと殴り倒して、でも結局は認めて、あの子を頼むと託して共に酌み交わし、幸福な様を見て俺は死のう。

 愛しているよチハル。だからお願いだ。君の、思わず漏れ出てしまうほどの気持ちを俺に見せておくれ。

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