三十四歳トーシュルツパニック-10
「江川さん」
その人はノースリーブにパンツ姿で、プリンを前にしたチハルのごとく微笑んだ。
じわりと高まった気温に体の境界があいまいになったような日にして、もう上着なんか要らぬ季節が来たのだと思い知らされた。
「とりま会ってみん」などという言葉に釣られて待ち合わせてみたこの人は、言葉遣いとは裏腹に一人の大人だった。馬鹿っぽい文面、ちはぴみとかいうお名前、俺の苦手とする人種の代表格だ。なぜ会ったか。気圧されたからとしか言えない。ちはぴみさんはちょっと立ち止まってこちらを見やり、初めましてちょっとお茶でもしましょうかと笑んだ。絶対ガキだと思ったのに。見た目も振る舞いも隙がなく気後ればかりが立つ。これほど成熟した人を他に知らない。文面はあんななのに。人間というものがますます分からなくなる。
「呼びにくかったら好きに呼んでくれていいんですよ。ちいちゃんとか」
そも他人を愛称で呼ぶ習慣がない。それも女性に対し。下の名前ぽく。恋人みたく、家族みたく。チハルのことをちいちゃんと呼んでみたら怒られるだろうか。あの子は友達からどう呼ばれていただろうか。携帯の登録者数は俺なんかとは比べものにならないくらいあった。高橋と呼び捨てにする者もあったろうが、あだ名で呼ぶ気安い友もかなりいただろう。まさか下の名前で呼ぶ男なぞはいなかったよな。
悲しいことにチハルを江川と呼んでくれる人はいない。俺たちを親子と知っている者はいない。チハル当人だって認めていない節がある。
「江川さんは他にも婚活アプリやってるんですか。私シングルなんだけどどうしても男親がいないと不安で」
そうだ。自分はどうしてこんなことをやっているのか。お母さんがいればチハルと真の家族になれる気がしていた。俺は寡夫でただの育て親。俺はチハルの父になりたかったんだ。だから妻が欲しい。三人でドライブに行く休日が欲しい。そうだ。俺、俺、俺のいつもの思考パターン。俺が本当に求めるべきは一体なんだ。
「物騒じゃない。去年も失踪事件あったみたいだしさ」
チハルのために生きていくと決めただろうが。あの子が望んだのか、母の存在を。違うだろう。なぜ真っ先にそこを確かめなかった。俺はなんて独りよがりだ。真にやるべきだったのはチハルのための生活をしっかりと守っていくことのはずだろう。
ちはぴみさんがはにかみながら眉をひそめた。俺の頭はどこまでいっても姫のことばかり。ずずっと音を立て薄まったコーヒーを吸い込む。ちはぴみさんはパフェみたいな飲み物を頼んでいた。ダークモカなんとかパトローナムみたいな。呪文コーヒー、チハルも好きだろう。帰りに買って行ってやろうか。けれど差し当たっての急務は、そう、娘を守ること。物騒な世の中だ。姫に魔の手が迫るやも知れぬ。あれだけの子だ。見染める糞も多いやも知れぬ。
「江川さん、ごめんなさいね。そろそろ娘の迎えの時間だから」
立派だ。これが世の親か。まだ着いて少しだって経っていない。これが保護者か。俺はいつまで自分を優先に生きるのか。痴呆のごときネーミングセンスと嘲った自身が恥ずかしい。ちはぴみさんが千円札をテーブルに置く。俺が手で制すと、
「や、貸し借りとか作りたくないんで」
舌を巻く。男が奢るものだとネットで読んだ。なんて自立した女性だ。親御さんというものはこれほどの経験値がないと務まらぬものなのか。だとすると俺の具合はどうだ。三十数年、一体なにをやってきた。ちはぴみさんはそのまま振り返らず行ってしまった。もっと話をしてみたかった。娘さんは何歳なんでしょう。どうして片親なんでしょう。今は保育園に預けているのですか。それともご実家に置いているのですか。好きなおもちゃはなんですか。イヤイヤ期ってどんなものでしたか。どうやって親になったのですか。
俺も一歩を踏み出さねばならぬ。
片手を上げる。す、すみません。「はい」店員の女性がにこやかに応じる。
「はい、どうされましたか」
あ、このレシートの、この、ダークモカ……チーノって、高校生くらいの女の子って、好きでしょうか。
「嫌いな人はあまりいないと思いますけど」
あの、持ち帰りって……。
「テイクアウトですね、できますよ。全部同じもので良かったですか。こちらソイミルクですけど」
わかんない、すみません、全く同じのください。
「かしこまりましたぁ」
缶ビール半ダース相当のパフェを提げ歩く。心は決まった。俺は一角の親にならねばならぬ。立派な人間たればチハルも懐く。社会的に盤石であれば衣食住も揺るがぬ。そして俺に社交性があれば娘も歪まず育つだろう。けれど今はまだ、俺は未熟だ。だから今はまだ、守ることに全力を注がねばならぬ。
アダルトショップの扉を叩く。久しぶりだ。むっとすえた空気が鼻の中で暴れ回る。下卑た空間だ。ああ嫌だ。店員のやる気のない声と、そこかしこのモニターから流れる矯声とがくるくると宙を舞う。巨大な芋虫然とした棒がうぃんうぃんと蠢く。何本も生えている。おぞましいザムザが俺に問う。まさかチハルは架空の存在なんじゃあるまいか。お前はずっと独りだろう。ずっと独りで、ずっと独りのままで死ぬ。
違う。江川チハルはたしかにいる。俺はおかしくなんか無い。
ともかく手錠だ。痛いのは嫌だろう。合皮付きのこれにしようか。いや、これなんかラインストーンが散りばめられてかわいいデザインだ。やはり年頃の女の子だ。恋する子だ。こっちの方が良いか。ついでにこの警棒も買おう。暴漢が娘を狙いに来ないとは限らない。俺が守るんだ。誓え。命を賭して守るんだ。これからの俺の人生はすべて娘のために。今一度。
「あれ、こないだの人じゃん」
はじめは俺に対する言葉だとは気づきもしなかった。「ねえ、ちょっと」という呼びかけに振り向くと、まさにこの間の女性がいた。マナ? マナミ? 鈴木くんのセッティングしてくれた飲み会の、無礼だけれど気の利く白い子がそこにいた。今日も白い服で今日は陽光を受け絵画のように輝いて見えた。
「マぁ? 今そっから出てきたっしょ。何買ったん。いや草。オナホ? オナホでしょ見せてよ」
やはり失礼に過ぎる。少し気遣いができるからって君なんかがちはぴみさんと同じ女性だなんて思えない。
「何その目。久しぶりじゃん元気してた? ねえ何買ったんよ、AV? まさかディルド? ねえ教えてよ」
嫌です。けどそんな疾しいものじゃありません。
「ええ、でもゴムじゃないでしょ、どうせ。あれ、童貞だよね」
ノーコメントで。
「あ、それ手に持ってるの。カフェの。お兄さんも好きなんだ。新作?」
逆光に温度感を高めて上がる口の端に近づくようにして、白いのの目尻にすぅっと皺が寄る。この屈託のない感じに思わず口が開いた。成人のこんな表情、生まれて初めて見たかも知れない。人は感情を仕舞い込む生き物だと思っていた。その姿が造形として美しいとさえ思っていた。いまこの白い服の女の顔つきはどうだ。漏れ出た心気がぶつかって痛い。件の俳優を見つめるチハルのそれと似てたちまち色が塗り変わっていく。
わかったかも知れない。もしかして今までの人生、俺は感情をぶつけられたことがなかったんだ。だから人間をそのように誤認していた。
「あ、」ぽかんと開いた口から転げ落ちるようにして声が出た。「わかんないけど、おいしそうで、お土産というか」
「いいなぁ、うらやま。ちょっと見せて……わ、マジじゃん。おいしそ。チョコチップとホイップ、トッピングしたやつじゃん。いいなぁ」
「わかんないけど、連れの、連れの頼んだやつそのまま注文して」
「マジかぁ。お連れさんめっちゃ良いセンスしてんねぇ。え、でも絶対それ女の子だよね。んー、デートは、ないだろねどうせ。いやごめんて。カロリーやばそうだけど美味しそう……ん、なんて、ソイミルク? ガチじゃん」
チハルはこの子と同じくらいに喜んでくれるだろうか。俺のこれまでの愚行をゆるしてくれるだろうか。
「ねえ一口ちょうだい」
「絶対だめ」
俺にも何かハマれるものがあれば違った人生だったろうか。そうすればこんなwillばかりの思考から脱却できていただろうか。mightばかりの今が消え去っていたかも知れない。
「で、」
白いのの右手が唇に寄る。左の髪が頬に被さって、今日はロングの女優で抜こうと決めた。
「結局なに買ったん」
「あ、手錠」
「手錠ぉ? え、マジ草なんだけど。意味わかん。キモすぎんだけど」
「あの、これ防犯対策というか」
「わかんないわかんない。ちょっとお兄さん個性的過ぎるって。いいよ黙っとくからいいよ。知りたくないよ。クソワロ」
俺はいたって真剣なのだ。この生活を守るためならば鬼にだってなる。娘を奪られるくらいならばいっそ殺してしまっても良いとさえ思う。こんな非情の父をなじっておくれ。貸金庫にでも入れておきたいとさえ考える。こんな人非人でも君への想いだけは本物なのだ、姫よ。
「ちょ、せっかくだし連絡先、交換しとこっか」
マナはそこから笑い通し、お兄さんの所為でメイク落ちるじゃんなどと言いながらどこかへ去った。手を振って。後、地下鉄へ乗り込んだ俺の携帯が鳴る。マナから謎の画像が送られてくる。ブサイクな猫がワールドワイドウェブと発言するそのイラストに、俺も思わず吹き出してしまった。
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