三十四歳トーシュルツパニック-9

 我が子が「キモ、死ね」としか言わなくなった。

 もしや遅れて来た反抗期か。いや俺への不信感だ。謝りはした。しただけなのだ。チハルは受容してくれない。俺は未だゆるされない。朝山さんに助言を乞うも、女の子だもんねと言って困った顔をしてはにかんだ。

 そろそろ繁忙期を抜け出しつつある。

 戯れにマッチングアプリを始めてみた。どんな写真がウケるだろうかとチハルに聞こうとして憚られた。いいねなんか来ない。閲覧数だけは日に伸びていき、けれどメールなんてものは一通もない。アピールポイントを問う項目に俺はまだ何も書き込めないでいる。自身の再発見すらできずして他人と触れ合おうなど馬鹿げたことなのかも知れない。

 あれから高橋が馴れ馴れしい。あの夜あの後はどうだったのかと問うに、高橋はにやっと笑んで応じた。この笑みは嫌いじゃない。いつもの高橋ではない気がした。それでも彼と会話することなどそれほどでもないが、気づけば他の同僚も挨拶くらいはくれるようなった。俺もたまにはもごもごと発する。ちゃんと返ってくる。そうだ、挨拶がきちんと返ってくるものだとなんで俺は知らなかったのだ。この年になって初めてそれを肌感覚で知ったのだ。

 俺はチハルへのおはようとおやすみは欠かさない。我が姫は目も合わせない。部屋の空気までも他人行儀で、いつぞや覚えた姫の甘い受容など今は一欠片も匂わない。アプリのいいねも続けている。これも挨拶だ。わかり合おうとする努力を止めてはならぬのだ。

 しかして鈴木君はこともなげに言う。

「江川さんアプリ始めたんすね。え、いいねなんてそんなん簡単すよ。プロフ水増しすりゃいいんですから」

 嘘を吐けということ? 

「え、違いますよ。一週間くらいプロフィール捏造して置いとくんです。で、後で戻すんす」

 つまりはこうだ。女性は優秀な雄に惹かれるものなのだと。優秀な雄とはたくさんの女性からアプローチをかけられる存在のことなのだと。だから見かけ上のいいねの数で誤認させようというわけだ。欺罔じゃないか。鈴木君は「え、そうなんですけどね」と言いながら業務に戻った。

 けれど他に良い方法も思いつかなかったし、こんなアプリなんかで真剣な出会いを求めているわけではなかった。とにかくやりとりをして慣れてみたいだけだ。鈴木君の言う通りにしてみようじゃないか。

 年齢、そのまま。身長、一八〇以上。学歴、四大卒。年収、一五〇〇万以上。写真はスーツ姿で胸元のあたりをアップに、顔はぼかす。

 その後は仕事に身が入らなかった。チハルのこと以外で気を揉むのなんて久しぶりかも知れない。あんまりそわそわしたものだから、叱られついでに大量の書類の裁断を命じられてしまった。そんなものパートの業務だろうに。

 外へ目をやるに街路樹の揺れる様が飛び込む。色温度に逆らって飛び抜ける黄緑は幼児のクレヨン画のようだ。チハルも幼い時分にはそんな絵を描いただろう。「見て。パパの絵描いたの」緑のクレヨンでぐるぐる円を描き合わせ、小さなチハルは得意満面、俺に飛びついて来たかも知れない。どこかの世界にはそんな過去もあったのだと思っていたい。

 いいねはたくさん来た。二○三件。たったの数時間で。いや、見る間に一つ増え二○四。さっきまでゼロだったのに。これは俺宛てではない。架空の俺へのいいね。架空の俺は高身長高学歴高収入にして眉目秀麗。娘のお迎えに保育園へ出向けば奥様方がたちまちほぅと息を吐く。現実の俺は佞悪醜穢。誰もがたちまち唾を吐く。

 メッセージも多く来た。皆、長文なのだ。これを打ち込むのにどれだけ時間をかけただろう。ごめんなさい。これは架空の俺だから現実の江川が返信するわけにはいかないのです。けれど罪悪感はすぐに消えた。ほとんど皆、二十代前半に見える容姿とのことで、俺には気が重たい。無理だ。対面が女性というだけでうまく喋られないだろう俺なのに、そんな美人とコミュニケートするだなんて。だって実年齢より一回り下に見られる相手だなんて。やはり高収入の元には美女が集う。俺は塵芥。放って置いてくれるのならばまだ良い。無造作にダストシュートされるばかりの人生だった。

 それから一週間程度で架空のアランドロンは4百弱のいいねを稼ぎ出した。読み切れないほどのメッセージをいただいた。この間、姫君からのキモイシネは5件。現実との乖離よ。あなたにならすぐ抱かれても良いのにと綴られた文面には、AVじゃないかと思わず独り言ちた。顔写真を要求する内容が比較的多い。ごめんなさい。代わりに日曜朝方の特撮番組でもご覧になってみてください。世を羨み斬られるそれに似ています俺は。

 一つ一つ修正していく。身長一六〇、大学中退、年収三五〇。ただ死んでいなかったというだけで何らの努力もせず来た道の先がここ。自身の怠惰さの再確認。華やかな人生を送りたかったわけではない。だけれど自分の無能力具合を改めて見たかったわけでもない。下駄を履かねば背伸びもできぬチビだもの。江川のプロフィールがきちんと出来上がり無性にステーキが食いたくなった。

「なんてお呼びすれば良いでしょう」

「親しい方からはどのように呼ばれていらっしゃいますか」

 そんなこと、なんで出会い系サイトなんかで気にするんだ。好きに呼べよ。ガワチンコでもコエガワでも好きに呼べよ。俺には親しい人なんかいないんだ。まだパパでもないから家族もいない。娘からの二人称すらないんだ。惨めだ。俺をこの世に留めているのは自意識しかない。そうか、俺はチハルを、そんな鎖として仕立てようとしているのかも知れない。

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