三十四歳トーシュルツパニック-8

 うんこ漏れ太郎だか漏れ杉正造だか、子供の頃に呼ばれたことがあったはず。授業中にお腹を下し願い出たところ、「先生はトイレじゃありません」などと言われ叱られた。そのまま漏らした。はじめはうんこマンだった。学年が上がるにつれ前方うん古墳だとかくせえ徳太子だとか、誰がひねったあだ名をつけられるかで少しブームになった。ゲームのキャラクターをもじりウンチュウと呼ばれ始めた頃、そのゲームに失礼だからという理由で終息した。けれど江川には戻れなかった。俺はガワになった。

 縄のれんをくぐると肩を叩かれた。ただし江川でも漏れ川でもなくコエガワだった。

 向こうで鈴木君が手を振る。対面のうち一人がこちらを見やりぺこりと頭を下げる。捩り鉢巻きの店員が威勢の良い挨拶を響かせ、芳しい酢の匂いが鼻腔をくすぐる。

「おつかれ、コエガワ」

 声の主は同僚だった。いつもスマホをいじってばかりの。何故ここに。

「俺も鈴木君に呼ばれてさ」

 たしか、名前はチハルの旧姓と同じ。高橋のはず。

「江川も……コエガワも飲み会なんて来るんだな」

 何故言い直すか。高橋とはあまり喋ったことがない。うんこマンに変わる呼び名を開発しやがったあいつや、下着店に入ることを強要した不良なんかに似て、声を出す時に口角がにやりと上がる様があり少し苦手だった。へらへらと下手から話し始めるくせに内心で相手を見下していそうな目。笑うのは口まわりだけで顔の大部分が冷ややかなままだ。俺はどうもこの手の人間が嫌いだ。腹で何か気色の悪いことばかり考えていそうな手合いというか。こういう奴が通行人をぶん殴って物陰に連れ込んで乱暴を働くのだ。決まっている。

 席に着くなり早々に乾杯の音頭がとられ、それぞれ自己紹介が始まった。女性が三人もいらっしゃって自身が俺をどう紹介したかも覚えていない。みな見かけたことがある。別の部署の方だ。鈴木君はただのパート従業員というにどうやってこう人と仲良くなっていくのだろう。

 蛸のスライス。二十日大根と鯛のカルパッチョ。鱧のみぞれ鍋。

 俺を除いて皆のグラスが何度目かの交換を終え、目前の女性がガハハと手を叩く。人生二度目の合コン。これならば前回の方が楽しかった。舌鼓を打つだけで終わりたい。せっかくお洒落で美味しいお店というのに気分はちょっと乗らなかった。俺が頼んだことだというのに。マナだかマナミだか、あの子の愛嬌は、あれ、すごかったんだな。三人とも見知ってはいたけれどもう名前など失念してしまった。

「江川さんはナヨナヨしくて男として見れない」と誰かが言い、「俺は俺は?」と高橋が茶々を入れる。「高橋さんは出世遅いからイヤ」「うわ、ひでえや」「え、ちょっと言葉きついですよ。もう酔っちゃったんですか」鈴木君が取りなす。

 鰹の筑前煮。スモークサーモンの冷奴。帆立の茶碗蒸し。

 美味しいな。テイクアウトはないだろう。どうやったらチハルに作ってあげられるかな。この筑前煮、絶対チハルも好きだ。これを作ったらあの子も機嫌を直してくれるかな。

「コエガワさあ、ほんと暗い奴だなって思ってたんだけどさ、こないだのマジおもしろかったよ」

「あ、そうそう。それ聞きたかったのよね。すごく噂になってる。そんなに残業いやだった?」

「けどコエガワ、前まで残業きついとこいたじゃん」

「希望して今のとこに異動したって聞いたよ」

「じゃあ漏らしたって言ってまで帰りたかったてこと」

「課長だいぶキレてたもん。次の日すげえ怒られてたし」

「なんか江川さんも人間だったんだなあって思った」

 何それ。

 皆して俺のことばかり喋りやがる。学生時代の同じような場面に見た敵意は感じないにせよ、似た不快感に口が開かない。あさりの酒蒸しが喉の奥に引っかかる。うんこマンに変わる呼び名を開発しやがったあいつや、下着店に入ることを強要した元クラスメートなんかに似て、声を出す時に口角がにやりと上がる様があり高橋のことは苦手だ。対面の三人もあけすけに物を言い、前回の二人はかなり気を使ってくれていたのだなと改めて気づく。

「まさかコエガワさん童貞なの」

「コエガワ呼びになってるじゃん」

「高橋さんにつられた」

「マチアプやってみたら。私写真撮ったげようか」

「え、やってるんです?」

「私やってるよ。めっちゃ盛った。めっちゃいいねくる。乳も顔もめっちゃ盛った」

「胸も。見たい。見せて」

「俺も見たい」

「高橋さんはダメ」

「えっちなかんじ?」

「谷間がんばった」

「俺も見たい」

「江川さん見る?」

「発情しちゃうでしょ、そんなん」

「それはイヤ。ほんとイヤ」

 なんでこうも盛り上がれるか。高橋が底抜けに明るいということもあるだろう。俺には無理だ。チハルもこういう男が良いだろうか。少なくとも俺よりは良いのかもしれない。高橋みたいな不吉な笑みは嫌だ。営業スマイルの貼りついたようないかにも仕事バリバリやってます、みたいな胡散臭い男も嫌だ。我が子には程々の好青年を射止めてもらいたい。違う。本当は誰でも良い。彼女が望む相手ならば誰でも良い。悲しいけれど。でも俺みたく無表情の男だけはやめておくれ。違う。そんなところに本音はない。チハル、いつまでもずっと俺と暮らそう。そうしよう、そうしてくれ。

 鯛の握りと巻物とが並んだ。そろそろ終わりだろうか。みんなは別の店で飲み直すのだろうか。俺がうまく話しかけられないのは相手のことを一人の人間として見ていないからなのだろうか。俺への目線に親愛を感じないからだろうか。だとすると、その始まりはどこなのだろう。だって俺もそんな感情は抱かない。誰もがそうとして、どこから親しさが生じるのか。

 鈴木君が升の中身をグラスに注ぎ入れた。縁を舐めとる。

 俺だけ世界の位相が違う。木製の箸が滑りかけ慌てて持ち直した。

「もうほんとに騙されたよね。こんなメンツだったら今日来なかったのにさ。イケメン呼んでよ、イケメン」

「ええ、顔はいいや。清潔感あってお金あったら」

「無理でしょ。そんなんもうとっくに結婚してる」

「清潔感ある方だと思うよ、俺は。元営業だし。どうよ。金ないけど」

「鈴木さんは黙っとけば良い感じと思うけどね」

「高橋さんは、ほら、清潔ではあると思うよ、そりゃあね」

「どんなに清潔でもみんな便器とか触りたくないじゃん。そんなかんじていうか」

「残酷なんよ」

 そこからまだ一時間は続いた。一人は高橋とともに飲み直すのだと言う。あれだけけなしているように聞こえどうして仲は壊れないのだろう。俺ですら分かる。嫌い合ってはいない。

「コエガワ、お前ちゃんと飲んだか」

 去り際、高橋はそう言った。細巻の米粒が欠けた歯の間に挟まり舌で押し出し除くのに苦戦した。取れたけれどもまだ何かつかえていそうで非常に収まりが悪い。もしや高橋は悪くない人間なのやも。第一印象で苦手意識を抱いていただけに過ぎない。そういえば鈴木君にだって初めはそうだった。朝山さんにはなるべく自身の言葉で話しかけたいと思ってはいるが、どうだ、学生時代、好印象などとくに持ってはいなかっただろう。

 街の明かりが覆い被さり空は不明瞭な黒に塗られていた。星の見えない週末の夜、チハルは俺の帰りを待ってくれているだろうか。お土産を買って行こうか。酔ってはいない。悲しくも酔いはできない。

「お兄さんいま帰りですか。今夜は月ないっすね」

 ぶかぶかスーツの青年に声をかけられ、見やり、首を横に振った。口角だけがきゅっと上がり、「しょーみ、うちの店ならお月さんいっぱいありますよ。揉むっすか」

 頭を横にふりふり、やはり夜は煮汁の灰汁をぶちまけたシンクのような色合いにして、星々なぞは目に映らなかった。

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