三十四歳トーシュルツパニック-7
人間の幼稚性は土台の伴わぬ脆さをひた隠す防壁であり、薄っぺらのプライドを掲げ覆い補強していくこの部分が、憎たらしくも社会性と呼ばれるのだろう。
生ぬるい風が刈りそろえられた鼻毛をくすぐり駆けていく。
あれから、ドラッグストアには四度、スーパーマーケットには一度寄った。急な欠員に今週は珍しく残業が続いている。朝昼の食事は作れど晩のものにまで気が回らない。申し訳なけれど菓子パンとカップラーメンとを置いて出る日もあった。チハルは何も言わない。まだ仲直りができていない。俺が切り出さなくてどうする。己の稚気が招いた状況だのに、忙しさにかまけて先延ばしにする醜い自分がいる。
そして来た。姫の誕生日。
プレゼントたる写真集と小型冷蔵庫とは玄関に隠して準備した。この日は運悪く全社的に残業の運びとなった。出がけ、あの子は起きて来ず、祝福の言葉も言えぬまま出社してきた。我が家に来てから初めての誕生日。盛大に祝ってやりたかったが仕方がないのやも知れない。パートの鈴木君まで居残ると聞いた。上長はやたらピリピリして檄を飛ばす。他部所から流れてきた雑務をこなしながら、これを成せば給与は一.二五倍だからと自身に言い聞かす。これまでは賃金総額だなんて気にしなくとも、趣味もない、恋人もない自分では使い切れないほどもらっていたはず。使う予定もなかった。どうせ我が部署では雑事くらいしか出来ぬのに、夕飯と称された栄養ドリンクの差し入れをいただいてしまっては何も申せぬ。
あの子はいま何をしているだろう。雑誌を眺めているのだろうか。子であって一つの人格だと気づいたというのにそれでもまだ姫と思う自分に嫌気が差す。思う気持ちに貴賎なく、けれどチハルにはチハルの自主性がある。一息ついて、財布に入れたままの娘の学生証を取り出すと、生年月日の欄に記載された本日の日付がやけに輝いて見える。義理の父なのだからこそ記念日はしっかと祝わねばならぬのでないか。これはあの子を所有物として見ているのでなく対等に扱うからこそ、より重大事なのでないか。俺は何のために働くのか。生きるためか。では何のために生きるのか。江川チハルのためではなかったのか。
デスク脇に積み上がる書類をデータベースに登録していきながら、見やるに、同僚はこそこそと携帯電話を覗き見ていたし、上長は場に見当たらなかった。またタバコ休憩に行ったと見える。残業までしてやることがこれか。こんな業務、俺でなくとも誰だってできる。けれどあの子の親は俺しかいないのだ。
前の部署にいた頃にはそれでも少し専門性のある仕事を任せられてはいた。俺でなくてはとまでは言わぬが、瑣末ながら自負があった。今はどうだ。サボりながらでもできる。酷いことを言う。最低賃金の鈴木君にだってできるくらいの仕事だ。
しかしてチハルの誕生日を祝う資格が本当にあるか。いいや、考えるまでもない。資格がなかろうと今年祝えるのは俺しかいないのだ。
PCを閉じて鞄を引っ掴む。同僚は俺になんか目もくれない。タイムカードは……切らなくて良い。さすがに音が鳴っては呼び止められる。じんわりと汗ばむ。日陰者で良かった。俺ごとき誰も気にしない。今しかない。帰るなら上長のいない今しかない。
「失礼しまーす。追加のやつ持って来ました。お願いします。え、あれ、江川さん帰るんすか?」
ここで鈴木君。室内の目が俺に集中する。
いや、帰るわけない。帰るわけないよ。
「え、ですよね。じゃ、すみませんが頼みます。失礼しましたー」
大人しく席に着いてPCを再起動する。皆の目線はまだ外れない。紙の束を掴み上げ猛然と打ち込んでいく。駄目だ、帰らねば。愛しい姫が待っているのだ。
憎たらしい太鼓持ちの上長が戻って来る。腹を揺らしながら、また何事かぶつぶつ言いながら一人一人の席を見て回る。こいつが、こいつがきちんと割り振っていればとうに終わって帰れていたんじゃないのか。押し付けるばかりで動かずの無能が。お前のせいで。お前のせいで。
こうする間にも時は進む。抜け出す糸口の掴めぬまま長針がまたⅻを指す。山は減らない。鈴木君がまた追加分を持ってきた。こんな仕事、別に今日でなくたって良いじゃないか。他部署が残っているからじゃあうちでも、って。阿呆じゃないか。俺は協調性の無いぶん与えられた仕事は真面目にこなしてきた。欠勤だって姫が熱を出した時くらいだ。こんな日に休めず何が親だ。
立ち上がる。訝しげに皆が見る。
「江川、どうした」
帰りたいです。
「何だって?」
「うんこ!」
皆の瞳が好奇を帯びたものに変わる。携帯を見てばかりいた同僚が今度は口角を上げて俺の虜と成り果てる。
「うんこ! 漏らしました! おしめ! うんこ! うんこぉぉぉぉぉぉぉ!」
財布だけ持って駆ける。背中に上長の声がかぶさる。帰ろう。振り向くな。怒られるのは明日の俺の仕事だ。今日はもう帰ろう。
ケーキ屋を後にして、やっと自身が何かとてつもないことをしたのでないかと気づき、足が震え、本当におしっこが出た。
チハルは相変わらず無言だったが、写真集を手渡した時には頬がぴくりと動いた。充分だ。ズボンにシミのついたまま冷蔵庫を設置する。これでチハルも好きな時分に間食ができる。しながら、非礼を詫びた。自分にコンプレックスのあったこと。チハルを囲ったままにしていること。少しずつ改善する。俺はまだ子供のまま成長を放棄した醜い人間だった。それを詫びた。チハルは俺を見やりもしない。ショートケーキを一欠片ずつ口に運ぶ。まるで何か作業をしていなければならぬ義務感でもって。怖くなり、とにかくごめんと連呼しながら、俺はお菓子とお茶とを詰めた。
最後に「おやすみ。お誕生日おめでとうね」と扉を閉めると、カシャンと、何かの投げつけられた音がした。目からもおしっこが出て、これは少しと言わず、いつまでも止め処なく漏れ出ていった。
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