三十四歳トーシュルツパニック-5
時間がまた動いた。陽気な時季から葉桜のそれに変わり始め、店先のレイアウトからピンク色が見えなくなった。
今年の連休はしっかりと休みがとれそうだ。こんなに長くチハルと過ごすのは初めてだ。何をしよう。ゲームか何かを買って一緒にするのはどうだろう。こんな時、世のお父様方は、きちんとした家族ならばどんな休暇をとるのだろうか。キャンプ? 旅行? いや、思春期の娘と? まさかそんなことを考えるようになるだなんて去年の今頃には思いも寄らなかった。妄想では少し考えもしたかもな。けれど、まさか、これが現実だなんて。
もう少しすればチハルの誕生日も来る。俺の元へ来てこちらも初。盛大に祝ってやろう。贈る物はもう決めてある。例のタレントの写真集。これに加えあとは何か一つ。ケーキは女性社員の話にたびたび出てくるあの店、そこにする。料理はどうしようか。娘の好物、鶏の煮染め? いやいやケーキとは合わない。ならば、洋食。でも俺にお洒落なメニューは無理だ。またレシピ本を買って来るしかないのか。とするならばグラタンみたいなものを作ってあげたい。
最近では会話も多くなり彼女もすっかり慣れたように感ずる。それよりも少しふてぶてしい面が見えてきて父としては目が立ってしまう。これも俺との生活に順応したからこそだととれば嬉しくもあり、とまれ十六になる子ということもあり、どこまで注意すれば良いのかこればかり煩悶する毎日だ。
俺としても喋るのには慣れた。相変わらず会社の面々とはうまく受け答えできていないけれど、この子は俺の娘なのだと思えば言葉が素直に出てくる。話すことが一番のコミュニケーションとは良く言ったもので、自分の心の有り様より彼女の内面を知りたくって仕方のない想いが優っている。他の人との場合でも、あるいは興味を持って相対すれば言葉など自然と紡がれていくのやも知れない。が、まだその段階までは精進が要りそうだ。
「ねえ、結局さあ、こないだの靴、どうするん?」
それはある日の夕飯時、またいつものごとく煮物を突ついていた時のことだった。
「靴?」
「あれだって。こないださあ、雑誌で見たやつ。スエードのさあ、黒のスニーカー」
合コン以来、俺は外見を気にするようになった。生まれて初めてファッション誌なるものを買った。ページを繰っても異次元のものとしか思えなかったし、値段も桁からして違う気がした。(値段についてはチハルも「高っ」と言っていた。少し安心した。)姫の助言を受けて髪型も変えた。絶対にこの髪型で、絶対に美容院で切れと言うので、わざわざ駅前まで出向いてカットしてきた。四六〇〇円もした。店の選択を間違えたか。店員も客も若い人ばかりで恥ずかしかったけれど、皆、俺なんかより遥かに輝いており、そう考えると自身のこれまでに恥を覚えた。結局、横と後ろを刈り上げるというだけだったのだけれど、一月に一度は散髪に行くとチハルに約束させられたためこの連休中にまた行くこととなりそうだ。
「あれは高かったし」
「別にあれと同じのじゃないんよ。似てるの買って履けばいいんよ」
姫の経済観念はしっかりしていてこれまでも高額のものを要求されたことは無い。チハルに買った物で一番に高かったのはブルーレイディスクのプレイヤーだが、これは家族共用の名目だし、とすると恐らくは下着になるのだろう。女性用の下着は何故こうも高いのか。
雑誌の服に次々と丸をつけていきながら、こんなの買いなよと発する割には“似ていて安いの”と付け加える。本当に良い子だ。
「俺みたいなのがお洒落をして良いのだろうか」
この言葉は突然口をついて出た。チハルという光に当てられ過ぎた弊害なのかも知れなかった。チハルは娘だが、けれど俺と違い向こう側のいつも真ん中にいるような、何と形容すべきか、そう、言うなれば集団の中心的な人物だ。妬んでいるんだ。所詮は劣等感の塊なんだ。馬鹿だよなあ、娘相手に。いや、思うのは仕方がない。としても、分析できているのに気後ればかりする自分が嫌だ。
チハルは雑誌を繰る手をやおらに止め、「キモい」と言って居間を出ようとした。もちろん出られなかったが。
お行儀が悪い。まず頭に浮かんだのはそれ。が、その考えは現実逃避だ。解っている。
チハルは食卓の足に目をやった。俺も釣られて見やる。細く白い足がぶつかった。フリースの裾が揺れる。口からはチクショウと漏れる。視界の端でその唇の動きを捉えた。何故だか雑誌の写真が口角を上げた気がして顔を背ける。それでも錯覚としてこの残酷な笑みが脳裏に焼き付いた。
無意識に娘を籠に入れてしまっていたのだろうか。俺が人生全てをこの子に捧げたこの意気が、鎖で縛り付けられるかのような状態を強制してしまっていたのだろうか。
我が姫の瞳は水で盛り上がった。
どこからか選挙カーの小綺麗な声音が飛び込んで来て、それは部屋の天井辺りで迷子になって霧散した。
二十年前、奪われた消しゴムを窓から放られ溢れたあの感情と、涙と、似ていた。あの時には校庭から運動部の掛け声。
姫から離れた液体はフローリングに降りた。唇から跳ねていた音声は宙を彷徨って俺の元へ寄った。毒でも薬でもなくそれはただ俺に半生を想起させ消えた。
チハルはまだ江川チハルではないのだと悟った。
チハルが右足首辺りを自傷し始めた頃、俺はやっと幻から解放された。
「ぶっ殺してやる」
姫は闇に落ちた。近づいた俺の胸をひた殴った。抱きとめるしか術が無かった。そこに性差の気後れはなかった。この愛しい存在を一人の人間として見た。これは契機だった。まだ江川ではないチハルは泣いた。ママ、お父さんと漏らして。俺もこの子の髪を濡らしながら溢した。まだ親ではない俺も。
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