三十四歳トーシュルツパニック-3
ネットショッピングは便利だ。
外出しないチハルの代わりに諸々を買うのは俺だが、これが実店舗での購入ということなら、周囲から奇異の、いいや、侮蔑の目で見られることだろう。
学生時代、同学年の不良に強制されて女性用下着のショップに入ったことがあるが、あの時に向けられた客たちの視線には今でも嫌な汗をかかせられる。同年代の女の子の、キモっと発したその声音に俺は泣いた。
「お客様、こちらは女性向けの店ですので」
喋り掛けられて動揺し、嗚咽と共に、ディスプレイを薙ぎ倒しながら転がり出た。店員はそれ以上何も言って来なかった。店先では同級生たちが嘲笑していた。通行人たちによる視線も俺には合わせてトラウマの一つだ。
通販ならば荷物の中身を悟られることは無いし、伝票の品名記入欄も、女性向けファッション誌だろうがブラジャーだろうが、雑誌ないしは衣類となる。これは世のシングルファザーたちの強い味方だ。就寝前にはパソコンに張り付く習慣ができてしまった。
気恥ずかしかったのは生理用品の購入の際だ。
チハルにファッション誌を与えるようになってすぐ、ナプキンを丸で囲われて渡された。うっかりしていた。そうだ。男の子の日なんてものはないのだから。
その夜には血のついた下着が籠に入っており、俺は自身の愚鈍さを悔いた。年頃の女の子がこうしたということに、そこまでの配慮ができなかったことに、俺は遅いながらも猛省した。
さすがに近所のドラッグストアまで走った。レジ係の目に耐えながら、自身の傷よりもあの子のためだと、遠く離れていきそうな意識を懸命に繰った。
手渡しながら深々と頭を下げた。
チハルは俺を見つめた。
父親失格だ。しばらく顔を上げられなかった。
ややあってチハルは問うた。
「どうしたいの。私とどうなりたいの」
質問の意図が良く解らなかった。ただ、父親になりたいと、君を実の娘と思っていると、その二言だけを絞り出した。
チハルはしばらく逡巡して、
「あと、鎮痛剤、汚物入れ、お願いします」
と言った。
それもまた買いに走った。
以降、生理用品のストックは欠かさぬようしている。
ちなみにこの話には俺個人としての後日談がある。
このドラッグストアのレジ係というのがどうも高校時代のクラスメートだったらしく、別の日に訪れた際に話しかけられたのだ。最初はそうと気づかなかった。久しぶりと言われまさか自身のことだなんて気づかず無視してしまったくらいだ。名前を呼ばれて初めて気がついた。この人は朝山という、どちらかと問われるなら社交性に欠ける方で、もちろん俺ほどではなかったが友人も少なかったようだ。言葉を交わした覚えもそれほど無い。そういえば気の強い女子からからかわれていたな。持ってきていた小説を隠されたのを見た。えへへと、弱々しい笑みを浮かべていたっけ。
「何度か見かけてたんだけどやっと声かけちゃった。元気してた? ずいぶん大人っぽくなったよね。当たり前か。私らもうおばさんだしね」
朝山さんは口元に手をあてて綺麗に笑んだ。喋り方もあの頃とは違う。何と言うのかな、一人の女性になっていた。
それから朝山さんには同級生の状況を教えてもらった。もうほとんどが結婚しているらしい。離婚した者も多くいるとか。私はもうここまで来ると無理そうだわと、朝山さんはまたしても笑った。
そうだ、変わっていないのは俺だけなのかも知れない。つい先頃人の親になって日々自身の至らなさを痛感している。面倒なコミュニケーションを避けて生きてきただけそれによる苦労も無かったが、俺は取り残されたまま未だ子供だった。チハルが家へ来なければ一生気づかなかったのだろう。
「じゃあ仕事に戻るね。またね」
俺は軽く頷いた。同じ様にまたと言おうとしたが言葉が出て来なくって、その代わりこの店へは良く寄るようにした。
ドラッグストアへ立ち寄るようなってからは夕食に店屋物が増えた。生鮮食品が少ないのだもの。仕方ない。その代わりおかずの種類は増やし一品多く出すよう心がけた。チハルの健康のためだ。仕事終わりの手間と言ってもこれは何物にも代えられない。
昔、上司に連れられ忘年会の二次会としてスナックへ入ったが何だかこの事例と似ている。俺よりふた回りは上のママさんだったが、気品も色気もあり、それで当たり前のごとく場に馴染めない俺にも話しかけてくれ、ネエあなたは歌わないの? ネエあなたは少し暗いところがあるけれど周りの表情を巧く読み取れるとっても優しい方なのねと、上司たち好色家の面々の酔い話が途切れた時などにしっかりと目を見て声をくれた。そうなると俺も現金なもので、この日は大いに酒が進んだっけ。
「江川君ちゃんと自炊してるんだね。えらい」
江川——俺のことだ。ある日、朝山さんが寄って来て籠の中のもやしと人参とを見てとってそう声をくれた。思えばこの人も話をする時にはきちんと目を見て言葉をくれる。
「う、うん」
「えらいなあ。私なんて最近はお惣菜ばっかりだよ」
「俺も、昔は、そうだったけど」
「うん」
言葉に詰まろうともニコニコしながら待っていてくれる。朝山さんが相手だと不格好なものでも自分の言葉を出したくなる。
「娘がいるから」
「娘?」
朝山さんはいたく驚いたようだ。
「え? いまお幾つ?」
「十五」
「そっかあ、それじゃあちゃんとしたもの食べさせなきゃね」
やっぱり親ってのはすごいなあ。朝山さんはそう独り言ち仕事に戻って行った。たぶん思うところはあるのだろうが、余計な追求がないあたりに朝山さんの大人を見た。
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