三十四歳トーシュルツパニック-2

 そろそろ春も見え隠れしようかという季節。

 俺は閑職に異動となり、相変わらずチハルはずっと家に居るなか、それはある休日の昼下がり、二人でテレビを観ていた時が端緒だった。

 食事は各々の部屋で摂っていたが、リビングにテレビを置いてからは二人一緒に食べる習慣ができた。口数は少なかったが、一日に最低でも一度、言葉を交わすようにはなっていた。

 長かった。

 なんせ半年だ。ここまでくるのに。

 色々あった。いくら会社人間と引きこもり少女と言えど。

 ——発熱。

 少し前チハルが高熱を出した。

 三九度八分。 

 狼狽えた。

 解熱グッズを買い漁り仮病で休んでまで看病した。無遅刻無欠勤の俺が。こんな時に支えてあげられなくてどうする。

 チハルはひどく苦しんで、お父さん、お父さんと、何度も何度も呟いた。俺のことじゃ無いのは解っている。ずっと額の汗を拭い取っていた。一日中、見つからないように。涙を隠しながら。

 幸いにも一日ほどで微熱にまで下がった。

 点滴は駄目だ。事情がある。その代わり高価な栄養ドリンクと精のつくような病人食をたくさん用意した。

 チハルはありがとうと言ってくれた。俺が何かをする度に。

 朦朧とする意識のなか本物のお父さんと間違えたのかも知れなかった。でも、それでいい。

 微熱は少し長引いたが数日ほどで元気な様子を見せるようになった。

 やつれた姿を見るのが悲しくって完治した翌日には朝から仕込んで料理を振る舞った。チハルが珍しく、

「シチューが食べたい」

 と、ぼそっと、本当に聞き逃さなかったのが幸運なほどの声量で独り言ち、俺はそれが嬉しかった。認められた気がして。すぐに買い出しへ出向いた。仮病ももう一日だけ延長した。

 こんなに凝った料理をしたことがなかったし——白ワインやら何やらとにかく本格レシピ集まで買ってきたのだ——不慣れのためか味はいまいちだったけれど、チハルはそれでも美味しいと言ってくれた。二回も。俺はその夜には泣き通した。

 他者にきちんと感謝の気持ちを伝えられる良い子じゃないか。

 こんなに言葉少なにしてしまったのは、環境によるストレス、ひいては俺の所為ではないか。

 この子の境遇を思うと胸が痛くなる。

 少しでも良い父親であろう。少しでもチハルのためにあろう。この夜、再度、胸に誓った。

 さて、恋。

 チハルは相変わらず家から出なかったからそれはもちろん対面してのものではない。

 居間でテレビを観ている際、チハルが一言、

「あ」

 と言ったのだ。この子がこんな無防備な様を見せるのは珍しい。「あ」がどう続くのだろうと、何があったのだろうと、恐々、彼女の方を見やるしかなかった。

 彼女はそれからしばらくして、

「何でもない」

 と、だが自室へ戻ろうとはしなかった。これもまた見ないことでチハルはそのまま夕方まで動かなかった。

 少し訝しく思ったけれど、数日後、番組のガイド雑誌を求めてきたことで謎が解けた。目当ては一人の出演者だったのだ。いつしかその男の出る番組にはハートマークで印がつけられるようになり、チハルの熱中具合に、茶碗を持ちながらぼうっとするのは駄目だと俺は小言を発しなければならなかった。

 ああ、普通の親子ならばこんなものを恋だなんて思わないだろうし、それは俺も解っている。けれどそう感じたのには、件の俳優を眺めるチハルの瞳が湛える光と、そんな時の部屋の雰囲気とに充てられたからだ。小言を発しはするが、その実、そんな時間が好きだった。少女というものはこんなにも変わるのか。同じ空気を吸っているだけでなんだか甘酸っぱくなって、けれど不思議と意識は冴え、内外の音がくっきりと耳に入る。暖房の音に薬缶の音、テレビの音。チハル姫の甘いため息。

 これをそうと言わずして何と言う。

 さっそく出演作を借りてきた。

 ブルーレイディスクのデッキも買ってきて、勿体振るようにチハルの目の前でかざして見せた時の、この子のあの表情。同居してからこちら、退屈などさせてくれない。

 わざわざトイレを済ませて、そして正座してまで見入り始めた。

 俺は失礼ながら微塵も興味など湧かなかったから部屋の端で読書をしていた。たびたび盗み見るけれどチハルは表情を除いて微動だにしない。

 部屋がチハルの匂いで満たされている。この空間の主は彼女だ。

 何度も言うがこんな感覚は初めてだ。

 他人と関わることを避けてばかりの人生だったのだから他人からもたらされる空気など良く知りもしなかった。心地良い。悪いことばかりじゃないのだな。世の一般的な方々の心気をこの歳で初めて知った。

 このままこの時が終わらなければ良い。瞳の色をくるくると変える可愛い姫を見やりながらゆったりと過ぎる贅沢な午後。これ以上に何を望もう。

 こちらを何ら気にすることのないチハルに俺という存在の受容を感じ取った。早く正式な養父となろう。たくさん喧嘩をしてたくさん話をして、いつの日にか連れてくるだろう婚約者と、君に俺の気持ちが解るかと殴り倒して、でも結局は認めて、あの子を頼むと託して共に酌み交わし、幸福な様を見て俺は死のう。

 そのためにまず俺がしなければならないことは結婚相手を探すことだった。けれど女性と知り合おうだなんて考えたことのない人生だったから、今更どうして良いのかも分からない。とりあえずは紹介所だろうか。

「え、でもその前にすけど、女の子ときちんと喋れるんすか?」

 鈴木君に相談してみたが、その通りだった。自信は皆無だ。そもそも養子縁組のために結婚相手を探すなど女性にとって大変に失礼なことではないだろうか。

「何が一番大事かってのは人それぞれだから良いとは思うんすよ。でもその前に慣れが要ると思うんです」

 慣れ?

「え、慣れは慣れっす。一番良いのは、結婚相談所に登録するか、お偉いさんからの見合いの斡旋かだと思うんですけど。いいなと思っても、関係が発展しないと次には繋がらないと思うんす。てことで、まずは女の子と普通に話せるようにならないと駄目ですよ」

 飲み会を設定してもらうこととなった。一回り近くも歳が離れているが大丈夫だろうか。チハルだけでなく俺にも恋の季節が来ようとしている。

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