三十四歳トーシュルツパニック
佐藤佑樹
三十四歳トーシュルツパニック-1
突然娘ができた。
それは文字通りの突然であり、退屈な人生を過ごしてきた俺にとって逡巡もあったし大いなる不安をももたらしたし。これからこの子を俺が育てていかなくてはならない。妻もなく頼れる友人もいないこの俺が。思春期の女の子を。
名はチハル。
チハルは気難しい子だった。同世代の女性と会話するのにも苦労する俺にとってまず初めの難問は親しくなることだった。何を話しかけても拒絶ばかりで、やはりこの時期の女の子はそうなのだろう、俺を避けてばかりいた。父親代わりなのにいきなり逃げ出しそうになった。それでも根気強く話しかけていると数日が経った頃には手料理を美味しいと言って食べてくれた。そりゃあそうだ。研鑽したのだもの。でも嬉しかったなあ。その日はその一言きりしか声を聞かせてはくれなかったけれど、それで充分だ。きっともう少しすればチハルも心を開いてくれる。
チハルは訳あって高校に通えない。ある日は、それじゃあ駄目だと参考書を買って帰ったが泣かせてしまった。何がいけなかったのか。露骨すぎたか。今まで他人として暮らしてきたのに、親子の難しさが余計に立ちはだかっている。ひたすら謝って部屋から出て夕飯を持って行った頃には、チハルは泣き疲れて眠っていた。長い睫毛に綺麗な鼻。ああ、この子は天使だ。きっと立派な大人にしてみせる。毛布をかけ頬の泣きあとを拭ってやろうとしたが、起こしてしまうのが憚られ、代わりにおやすみと言い残して去った。夕飯にはラップをかけていつでも温め直せるようにした。明日はチハルが美味しいと言ってくれた鶏の煮物を作ろう。また明るい声を聞かせてほしい。
本来この時期は残業ばかりで俺も先月はそうだったが、チハルを引き取ってからはなるべく定時で帰るようにしている。
そのことで同僚からはやっかまれたし、上司のいびりも再燃した。たかがそれだけのことでとも思わないではなかったが、俺が居ないぶん他人の負担が増えるのだ。劣遇にもじっと堪えた。
それでも以前と変わらぬ態度で接してくれたのがパートの鈴木君だった。だって自分はパートですからねと、彼がちょっと自嘲気味に笑い、そういえば鈴木君も独身だっけと、気づけばこの人と話す機会が増えた。
「え、それで最近は定時上がりが多かったんですね。え、会社に報せて無いんですか。それはやばいっすよ」
手続きや、煩雑な諸々が片付いてからきちんと報告するよと、返事をした。
にしても鈴木君、え、が、多い。話の頭にやたら、え、と、入る。
それがうつったのかも知れない。昨夜は、え、寒くない? え、大丈夫? と、チハルの周りをうろちょろしてしまい、ウザいんですけど、と。
ああ駄目だ。少し落ち着かねば。けれどチハルのこととなれば過剰に心配し過ぎるきらいがある。
最近はチハルの好物が少し解ってきた。
好きなもの、醤油で煮染めた料理。とくに鶏肉。小さい頃からきちんと食べさせてもらっていたのだろう。良い子じゃないか。けれどどうやらきのこは駄目みたいだった。味噌汁も椎茸だけ残すし付け合わせのマッシュルームも綺麗に選り分けられて残っている。出汁をとるだけなら大丈夫なのに、これは食わず嫌いかも知れない。いつかは食べられるようになってもらいたい。
そういえばこの間、外に出ないチハルの代わりに服を買った。
チハルはここに来た時ファッション誌を一冊持って来ていたが、そこに載っていたブランドのものをだ。少し痛い出費だったが、通販の箱一杯に詰まった衣類を見て彼女は涙を溢して喜んでくれた。感謝の言葉は無かったが俺にはそれだけで良かった。しばらくその姿を見て部屋を去ろうとすると、珍しくチハルの方から話しかけてくれた。初めてのことかも知れない。心が踊った。晩御飯は奮発してセセリを買おう。
「下着を買ってください」
チハルは赤面した。
それはそうだ。まだまだ他人の男に下着をおねだりするのだもの。
すぐにカタログを揃えた。冊子のものからホームページを印刷したものまで。それも大量に。夜までかかった。セセリは無しだ。その夜はピザを頼み二人で食べながら、欲しいものには丸をつけておくこと、定期的にカタログを用意しておくから心配しなくて良いことなど、今後について話をした。
思えば俺たちはそのような会話を一切していない。これから少しずつ決めていこう。何も決めてはいないが急ぐことはない。時間はある。ゆっくり親子になっていこう。
こうして最初の半年が過ぎた。
この頃、チハルは恋をした。
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