10
◇
雛数は明るくなっていく早朝の窓に目を向ける。
片手には通話中のスマートフォン。
お相手は、その姿さえ見たこともない女の子だ。
その子は、彼が今しがた話した「今度は自分から電話するよ」なんて言葉に、若干の無言を挟んでから口を動かす。
『辻君から、電話するんだ……』
「……うん。土曜日以外にも、かけるかもしれないけどな」
『……』
雛数は不思議な感覚だった。
初めこそ先輩へのイタズラ電話を止めさせるために、彼女を注意してやろうと考えていたのに。
なのに、今ではこの汽水眠理という女の子と話すことに、言いようのない心地よさを感じている。
唯一、この電話の時間だけが、心を開けている瞬間のようにも思えていて。
専門学校のクラスメイトでもない。アルバイト先の同僚でもない。
接点なんてないないだらけの、ただの女の子。
顔が見えない、素性がわからない。
その匿名性は、やっぱり彼の背中を強く押してくれていた。
『でもいいの? そんな短いスパンで電話したりして』
「一週間置きにしたところで、俺の人生が好転するなんて思ってないからな。……それじゃ俺の人生が良くなるのは年金をもらう頃になってるよ。……というか、汽水さんこそ大丈夫?」
『え? ……うん。あたしはまぁ……大丈夫かな。曜日とか決めてもらえると助かるけど』
「……」
(大丈夫かなって……自分の予定だよな?)
雛数はそう疑問に思ったけれど、あえて口には出さなかった。
「わかった。それなら、次に電話するのは火曜日か水曜日にしよう」
『ふぅーん……。それは辻君の都合的にその曜日がいいってこと?』
「え? いや、そういうわけじゃないけど……なんとなく?」
『ゴルディロックス』
「え? ゴルディ……なに?」
『ゴルディロックス効果かなって思ったの。いくつか選択肢がある時に、できるだけ真ん中の選択肢を選んでしまう心理のこと。土曜日から数えて真ん中っていうと、火曜日か水曜日になるでしょ?』
「あ……間違ってないかも。たぶんそれで火曜か水曜って言ったから」
『じゃあ火曜日か水曜日ね。覚えておくよ。フフッ』
眠理のほくそ笑む声が電話口から響く。
なんで「ゴルディロックス」なんてあまり聞き馴染みのない用語を知ってるんだとも思ったけれど、雛数はとりあえず話を前へと進める。
「ところで、本題に行っていいか?」
『本題。人生が不運に見舞われないために、どうすべきか……ってこと?』
「そう、それ。さっきの汽水さんの話で言うと、俺も誰かを褒めるようにすれば、自分が救われるってことになるんだろうけど……これ、合ってる?」
『あ、それは合ってないかも』
「え? なんで……?」
雛数は眠理の返事に動揺した。
今の質問は念のための確認で訊いたものだったし、返事は当然『うん。合ってるよ』以外にないと予想していたからで。
『あたしね、その、先生からたくさん教訓を教えてもらってるんだけど、その中でも一番納得したものがあって』
「納得したもの」
『うん。それは「同じ言葉や行動でも、あなたがそれを行なうに適しているかは考える必要がある」ってこと』
「……!」
眠理のセリフにハッとさせられる。
『この教訓はたぶん、言葉や行動のところを「考え方」とかに置き換えても当たってるから。……だから、辻君があたしみたいに誰かを褒めたからって、救われるとは限らない。辻君には、辻君のやり方や適したルートがあると思う』
「なるほど。……うん。それはそうだな。例えば俺が汽水さんと同じ見た目で、声も可愛い感じで、環境も何もかも一緒だったらやり方をなぞるだけでいいんだろうけど」
『声が……可愛いって……』
電話の向こうで、眠理は少し恥ずかしがっていたようだった。
しかし、その赤面させた犯人である雛数本人は、大してそこを重要視していなかったため……。
「あっ、ごめん。全然そういう意味じゃないんだ」
『…………』
などと、絶望的な否定をかましてしまうのだった。
ああもう。
なんということ。
眠理は一度咳払いをし、話の本流に乗り直す。
『コホンッ。……ま、まぁそういうわけで、辻君は一度、辻君のやり方を模索する必要があるんだよ』
「人によってやり方が違うなら、そうするしかないか」
辻君のやり方。
一口にそう言われても、友達と呼べる者が一人もいない彼にとって、これは非常に難解なクイズのようなもの。
きっとこんな時、仲の良い腐れ縁の幼馴染や、ウザいけど憎めないコミュ力おばけの友達でもいれば話は違っていたのだろう。
褒めるテストの実験台になってもらったり、逆に褒められることでどう感じるのか、色々なアプローチのお手本探しに協力してもらえる。
「大切なのは、俺が自分の環境内でどういう立ち位置に居るかってことだよな……」
『うん』
「…………汽水さんを褒めるんじゃダメなのか?」
『それは……ダメじゃないけど、効果的じゃないと思うよ。辻君はアルバイト先とか、その他の場所で不運な目に遭ってきたと思ってるんでしょ? それなら、まずはそこにいる人達との関係を良好なものにする意味でも、その人達を褒めてあげたら?』
「そう……だね。うん。それはそうだ。俺もそっちの方が効果あると思う」
『ふふっ。……あたし、辻君の性格がだんだんわかってきたかも』
「え?」
『辻君は割と合理的で、自分の感情なんて平気で無視しちゃうことがあるってこと』
「……!」
雛数は何か、眠理に心の中を見透かされているような気がした。
『世間ではそういうの「大人だね」って言われるけど、あたしはそれもどうかなって思うよ』
「……。でも俺がここで「今までの人付き合いを変えていくの、ダルすぎて無理!」なんて我がまま言ってても前に進めないだろ?」
『うん』
「なら、仕方ないよね?」
『その通りだよ。だからちょっとくらいなら全然いいと思う。……ただ、自分の感情に嘘をつけばつくほど、その分だけ脳と心に距離が出来るから。……気を付けてね』
「気を付けるって……?」
『距離がひらき過ぎちゃうと、なかなか元通りに戻せなかったりするんだよ』
「……」
眠理の言い方はとても印象的だった。
何か表立って言えない事情でも抱えていそうな言い草で。
もしかしたら過去にそんな経験や、あるいは知り合いにそんな経験を持つ者でもいるのかもしれない。
そう思わせるだけの雰囲気が醸し出されていた。
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