09


 翌日、土曜日の午前四時。

 雛数は例によって、その週もまた汽水眠理からの電話を受けていた。


 金曜日の疲労がピークだったせいか、昨日は午後十時に就寝。

 早く寝るつもりはなかったのだけれど、横になっていたらいつの間にか夢の世界へ旅立ってしまっていた。

 午前四時に鳴るアラーム(※着信)は、そんな彼を起こすのにちょうどよかったのだろう。



『――――それで、今週はどうだったの? アルバイト』


「……まぁ……普通?」


 ベッドに身体を横たえながら、雛数は眠理の質問に応えた。

 一週間ぶりの眠理の声。


 相変わらず年齢不詳だと雛数は思った。


 声のトーンでいえばやや若そうだけれど、話す内容や口調からは差したる年下っぽさが感じられない。


 想像するに、身長の低い年上のパターンだろうか。

 もしくは、彼より年下なのだけれど、かなりマセていて大人っぽさを取り繕っているパターンだろうか。


 どちらにしても、結局それは彼女が自白しなければわからない情報である。



『普通……。そっか。……やっぱり辻君は偉いね』


「え、どこが……?」



 電話開始早々、眠理は以前の時のようにまた彼を褒め始めたようだった。


『だって何か愚痴ったりしたいことがあったんじゃないの? それを隠してるみたいだから』


「……」


 どうしてそんなに勘の良いことを言うのかわからない。


 前回に続いて今回も。


 それに、無駄に自分を褒めてくる理由はなんだ?


 そう感じて、雛数はさすがに彼女の言動を怪しむ。


「そういう事は…………あったけど。どうしてわかるんだよ?」


『そんなの簡単だよ。だって前の電話から今日まで一週間もあったんだよ? 一週間。七日間。学校とか会社に勤めてて、何も不満に思わないことのほうが珍しいと思う』


「……不満」


 雛数は、例のクレームナポリタン様や、学校での人間関係について、自分がストレスを感じていた場面を思い出してしまう。


 日常的な出来事なんて、そのほとんどが記憶のかけらにも残らないのに。

 自分にストレスを掛けてきた人達のことはハッキリと思い出せてしまう。


「この一週間、不満は……あった。でもこれは、普通のことだ」


『そうだね。とっても普通。……あたしも、生きていれば当たり前のことだってそう思う』


「……特に取り上げる必要もないことだって認識してたんだよ。だから俺は……今週も普通だった」


 そう言いながら、頭の片隅にはもくもくと浮かんでくる。


 クレームを入れてきた三十代カップルのこと。男性は料理の皿をぐぐーっと差し出して、口を尖らせていたし、その脇に座る女性も、犬のうんこでも踏んだみたいな表情をしていた。


 それと、専門学校でのこと。

 自分から話しかけてきたのに引いていった、学年一美少女とも名高い歌野さん。

 雛数のあげた素っとん狂な声に恐れおののき後ずさりしていた。


 いや、まだ他にも居る。


 お店であのクレームがあった時、帰り際に何か言いたげな顔をしていた家族連れの父親。


 無言でやり過ごしていたけれど、腹の底で何を考えていたのかわかったもんじゃない。

 また、歌野さんが雛数から離れていった時にせせら笑っていたクラスメイト。


 ああ、あれもダメこれもダメ。

 思い出すと胸がチリッとしたり、モヤモヤしたりする。



『無理に愚痴をこぼしても仕方ないけど……抱えてても仕方ないよ』


「……」


 雛数は、顔もわからない奇妙なこの通話相手に、そのまま悩みを打ち明けてもいいかもしれないと思い始めていた。


(汽水さんがどんな人かは知らないけど、かえって彼女みたいに普段関わりもない人のほうが、後腐れなく話せていいのかもしれないな)


 その通りである。

 汽水眠理は、その名前の真偽も、住所も、素性もよくわからない。

 雛数が普段関わっているいくつかのコミュニティの、そのどれにも属していないであろうキャラクター。圏外にいる存在だ。


 これがきっと、同じアルバイト先に勤めている人や、同じクラスの人であれば、そこに余計な「気遣い」だの「影響」だのを考えなければいけなかった。


「どういう事があったのか言ってもいいけど……その前に一つ質問していいか?」


『質問?』


 雛数は、いざ自分の身の回りで起きたことを打ち明ける段になって、確認しておきたいことがあった。


 それは――――



「なんで俺のことを、?」


『…………』


 雛数の質問に、眠理はやや閉口する。


「前に電話した時も思ってたけど、今日ので確信した。……なんかこう、意識して褒めたり励ましたりしようとしてるよな?」


『……』


(俺だってこれから身の回りのことを話すんだし、これくらい質問しても問題ないはずだけど)


 それから、眠理の息を吐く音がかすかに聞こえて、


『…………うん。そうだね』


「そう……だよな。やっぱり」


『辻君の言う通り、あたしは誰かを褒めたいって思ってた。…………でも、辻君のこと、偉いなって思ったのは嘘じゃないよ?』


「……」


『少しでもそう感じてなかったら、あたしは辻君を褒めたりしてないよ』


「……。よくわからないけど、誰かを褒めたいって気持ちが先にあったんなら、俺じゃなくてもよかったってことだよな」


『そう言われちゃうと……否定しづらいけど……』


 眠理は、はじめて不安げな口調でそう応える。


「……っ」


 だましていたわけじゃない。


 でも人を褒める行為は、その人へ向けた感情に嘘や偽りのないことが前提で。


 だから褒められた人は嬉しいと感じるし、肯定されているのだと感じることができる。


 アンノウンにあらかじめ気持ちの矛先を向けておいて、そこに『辻君』を当てはめてしまう行為は、そのセオリーから外れている。


 誰でもいいから褒めたいんです。と。そんな不誠実な話はないわけで。


「……。大体、なんで誰かを褒めたいんだよ。イタズラ電話もそれが目的だったってことだよな……?」


『褒めたい理由…………ス、ストップ。これ以上はストップ!』


「え?」


『この先はまだ言えない。……ほら、前回言ったよね。お互い、深入りしないことにしようって。……それにもう質問には答えたでしょ? だから今度は、辻君の話を聞かせてよ』


「……」


 今の会話は、果たして答えになっていたのだろうか。


 雛数は首をかしげたい気分だった。

 手元にあった掛け布団の端を、彼は軽く握り直す。


 確かに彼女の言う通り「意識して褒めてるよな?」『うん、そうだね』は、一つの質問に「イエス」と答えてくれたことになるわけだけど……。


「……」


 それにしたって不明瞭に感じる。


 何も言わなくなった『辻君』に圧のようなものを感じたのか、眠理は自分のカードを切るようにこう応える。


『じゃ、じゃあ……辻君が教えてくれたら、あたしもその理由を話すよ。……約束する』


「……わかった」




 ◇



「――で、そのお客さんにナポリタンをもう一皿作ることになったんだ」


『そうなんだ……』


 先週の土曜日に起きた出来事を話す。


 語る口から、雛数はあの時のことを思い出してしまう。

 彼の話を聞いていた眠理は、彼の気持ちを思いやってなのか、次のセリフを口にする。


『理不尽だったね、それは』


「……。まぁでも……理不尽だけど、元々そういうものだよなって思ってたらそこまでダメージ受けないからだよ」


『平気……?』


「平気」


 電話越しに聞こえる眠理の声音は優しかった。

 人を労わるその声に、雛数はちょっとだけ心が揺れそうになる。


「……」


『そういうものだと思っていたらって、どういうこと?』


「え?」


『だから、元々理不尽だと思っていたらって、どういうこと?』


「……」


 それを説明するのは難しい。


 けれど雛数はゆっくりと口を開く。


 うまく伝わらないような気もしていたけれど、もう今更そこを言わないのもおかしな気がしていて。


「前にも言ったと思うけど、俺は割と自分の人生がチャンスに恵まれてないものだなって思ってるから」


『そう言ってたね』


「理不尽な目に遭う回数が、他の人より多いんだと思う。ナポリタンもその一つだ」


『虫が入っちゃってたことね』


「うん。……あと、そのお客の呼び出しコールにたまたま俺が応えて、オーダーを聞きに向かったことも不運だった」


 雛数は指で己のアンラッキーを数え始める。


「あと、たまたま俺がその日アルバイトの出勤日だったこと。あと、たまたまその時ちょうど店長が昼休憩に入っていて、たまたまナポリタンを調理できる人間が俺しかいなくて……。それから――――」


『……。ねぇ、ちょっと脚色してない?』


「別に。話は盛ってないよ。悲しいけど、今いったどこかの要素が一つでも違っていたら俺は怒られてなかったと思う」


 雛数の見解は正しい。


 あのお店でクレームを入れられた場面は、彼の言うように他のアルバイターでも十分起こりえたことである。


 ダヴィにも、カレンにも。

 ガマ店長にだって訪れたことかもしれない。


 一連の揉めごとは、雛数が原因で起こったわけじゃない。


 だとすれば、彼の言う「理不尽な目に遭う回数」は、誇張なしに多いのかもしれなくて。


「……で、ここまで俺は自分の話を打ち明けたんだけどさ」


『うん』


 雛数は眠理の様子をうかがいながら、先ほどチラついていた例の理由を問いただす。


「今度は汽水さんの、誰かを褒めたいと思っていた理由を訊かせてくれよ」


『そう……。そうだね。褒めたいと思ってたのは…………がそうすべきだって教えてくれたからだよ』


「……?」


 誰だそれは?


 とも一瞬思った雛数だったが、ひとまずは黙ってそのまま眠理の話に耳を傾け続ける。


『人を褒めることで、汽水さん自身が救われる。そう言ってたから、あたしはその教えに従うことにしたのです』


 ……したのです。


 どうしてそんな口調でセリフを言い締めたのか、小一時間問い詰めてもよかった。

 おもしろそうである。


 が、雛数はため息を一つ吐いて、違う質問を選択する。


「汽水さんが救われる必要性が俺にはわからんけどね。たぶん、俺よりは恵まれた人生送ってると思うし」


『恵まれていても、満たされない人はいるんだよ。不幸なお金持ちっているでしょ? ああいうのも同じじゃないかな』


「……」


 雛数はほんのちょっとだけ沈黙を挟んで。


「汽水さんが、自分を救うために誰かを褒めてるのはわかった。それはわかった」


『ふふっ。理解が早いね。辻君』


「でも、俺も……」


 と、電話口でそこまで言い掛けて、雛数は口を噤む。



 ――これ以上自分の気持ちをつまびらかに伝えたところで、どう変化するっていうんだろう。


 ――電話の向こうにたたずむ見ず知らずの少女が、自分に何かしてくれるとでも?


 ――やめておけ。大抵こういう期待を抱いて、いつも裏切られてきたんじゃないか。



 雛数が黙りこくっていると、眠理はこんな言葉を返してきて。


『……「でも、俺も、救ってほしい」?』


「……」


『「俺のことも救ってほしかった。どうすれば人生が不運に見舞われなくなるのか、教えてほしいんだ」……って言おうとしてた?』



「…………うん」


『……』



 気が付けば、雛数は自分の中にあるプライドを捨て去って、肯定していた。


 午前四時の狂った時間帯。


 もしかしたら、電話というツールがよかったのかもしれない。


 彼はあらためて思った。


 素直に顔と顔を突き合わせていたら、こんな会話は成り立たなくなってしまうのだ。


 つまらない見栄を張ったり。

 男子特有のスケベ心が出て無駄にカッコつけたがったり。


 リアルの会話は情報量が多すぎる。


 それに引き換え、この処理すべきタスクの少なさはなんて心地が良いものだろう。


 雛数は一つ大きく深呼吸してから、しみじみと言う。



「今度は俺から、午前四時に電話するよ」

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