06
◇
『……』
「……」
午前四時の、こんな狂った時間帯の着信に出る奴も珍しい。
雛数がその言葉を口にして、ややも沈黙が生まれる。
二人ともスマホを耳元に当ててはいたのだけれど。
「……」
黙れば黙るほど、いわゆるホワイトノイズと呼ばれる環境音らしきものが耳につく。
一定の周波数が、一定量、一定の低さで流れている。
その微細な音の波をかき消したのは、またしても眠理のほうだった。
『たぶん辻君は、あたしと同じことを考えてると思う』
「……同じこと?」
雛数はついつい思うまま、疑問を口に出していた。
『そうだよ。今こうしてしゃべってるけど、あたし達はなんとなーくウソっぽい会話しかしてないから』
「……」
眠理の言う『ウソっぽい』の意味を、雛数はおおよそ予想しながら返答する。
「それも仕方ないことじゃないか? 今は個人情報にうるさい時代だから」
『……』
「自分の身元がわかってしまうものをさ、見ず知らずの人に伝えるのは俺だって怖いよ」
『じゃあ辻君の名前って……』
「俺の名前が少し信憑性に欠けるよねって話なら、汽水さんの名前も同じだろ?」
『ふふ……。ま、そうだね』
雛数は眠理が簡単に言ってのけた「ま、そうだね」に、とてもドライな印象を受けた。
お互い素性もわからない。
こんな一期一会みたいな通話のやり取りに、大して打算的な考えや得になるようなものを求めているわけじゃない。
お互いにそう思っている。
だから眠理の反応は至極当然なものだ。と雛数は思った。
『ねぇ辻君。これからあたし達は、きっと何度かこうやって通話していくことになると思うんだよ』
「……それはどうだろうな。これっきりって可能性も」
『ううん。きっとするよ。きっと何度か、数回かは、こうやって話をするんだよ』
「……」
なぜか眠理は、そこだけは譲れない。運命づけられているんだよ。とでも言いたげな口調で主張していた。
「仮にそうだったら……?」
『前もってお互いの情報を守るために、予防策を立てたいの』
「予防策」
一体どんな策を講じるというのだろう。
雛数が、電話口にその答えを求め、無言で待ち続けていると。
『あたしも、辻君も、どっちも名前は偽名だという前提で話す』
「ああ、そういうこと」
『これから話すこと。その一から十までの全部を、あたし達は情報として共有してしまうわけだけど、そういうものが全部「創作」だってことにして、それ以上深入りしないことにしようよ』
「……まぁ、いいけど、それだと会話に感情移入できないんじゃないか? 俺は今まで、そんな凝った会話を誰かと交わしたことがないから、今言って今すぐ実行しよう、なんてのは難しいと思うんだが」
『慣れるよ、きっと。あたしと話す時間だけ、うまく切り替えることができるはずだよ』
「……」
何を根拠に。
雛数はすぐにそう思った。
「どうしてそう思う?」
『だってこの時間は、あたしと辻君しか目を覚ましていないから』
眠理はそれが絶対的かのように語った。
新聞配達の人とか、朝の情報番組のアナウンサーとか、その辺の人達は職業柄起きてると思う。
雛数はそう言おうか迷っていたのだけれど、迷っている間に眠理が話を進めてしまう。
『邪魔する人がいないなら、できそうじゃない?』
「……。うん、そうかもしれないな」
雛数は優しく肯定してあげることにした。
本当、眠理が何歳なのかもわからない。
けれど、彼女の中にある価値観や物ごとのとらえ方を崩すのも悪いなと思っていた。
そんな雛数の気遣いが電話越しに伝わってしまったのか、彼女は。
『あはは、辻君。思ったより君は良い人だね』
「……」
寝起き、午前四時に、そんなくすぐったいことを言われても気だるいだけだ。
雛数はそう感じたものだけれど、嫌な気持ちにはならなかった。
「……眠いな」
『ふふっ。辻君は、褒められ慣れてないんだね』
「……っ」
照れ隠しを見破られて、雛数は一瞬言葉に詰まった。
その気恥ずかしさをごまかすために、早く次の会話へコマを進めたくなる。
「そ、それはそうかもしれない」
『へぇ。……そうなんだ。あははっ』
眠理は少しいじわるそうな、含みのある口調で反応した。
雛数はあえて動じない様子で会話を続ける。
「褒められるチャンスが少ない人生だなってよく感じるからな。昨日もバイトで……」
『バイト?』
(あっ……)
雛数は、つい言ってしまった。と思った。
「……」
別に隠すことでもないし、自分のような専門学生のアルバイトなんてどこにでもいる。ありふれた立場の人間だ。
眠理に教えたところで、自分の日常に影響なんてない。
そう思い直してみると、これはなんてことない暴露のように思えた。
「うん。アルバイト、してるんだ。小さな喫茶店で」
『ふぅーん。……アルバイトね。社会に貢献してるの、偉いね』
「全然。自分の小遣いのためにしてるアルバイトだから、偉くなんてないよ」
言ってて虚しさがこみ上げてきたからか、雛数の口調は尻すぼみになる。
自分のために働いている。
とても当たり前のことを言ったまでだと、雛数は感じていた。
『……』
ただ、数秒の沈黙を置いてから、眠理はそれでも雛数を肯定しはじめた。
『労働力と引き換えにお金を得てるからってことじゃないよ?』
「……え?」
『辻君が喫茶店で誰かに接客した時、その誰かはきっと辻君に感謝してると思う。さわやかな笑顔でこっちも元気になったなぁとか。美味しい料理を運んでくれてありがとうとか。お水が少なくなってることに気付いてくれて嬉しかったとか。そういう、小さなこと』
「……」
『それは、辻君がお店からお給料を受け取ることと、特に関係のないことじゃない?』
「どうしてそんな……」
そんな風に、まるで『がまのふた』を観察してきたかのように言うんだろう。
雛数は眠理の想像力に気圧された。
話すそばから情景が浮かんできてしまうくらい、眠理のお話にはリアリティがあって。
『どうしてって……。たぶんそうかなって思ったからだけど?』
「……そ、そうだよな。だって今の話には、実際の俺の接客とは違う点が、いくつもある」
雛数は自分の働く姿を省みた。
さわやかな笑顔なんて、振る舞えた記憶がない。
自分はいつも不愛想で、よくガマ店長から叱られている。
料理はガマ店長が作ったものを運ぶだけで、ダヴィや立花、早川との違いなんて何もない。
お水は、確かに、減ったら継ぎ足しのお声掛けをするけれど、それだってガマ店長がマニュアル的に指導してくれたから、それを何も考えずに、機械的に実行してるだけだ。
こうした日頃のシーンを思い出してみると、なんだか雛数は恥ずかしいような、悔しいような、よくわからない気持ちで押しつぶされそうになった。
『労働力とお金のね、その取引とは違うところで、辻君は誰かに感謝されてるよ。だからそのことに、あたしは偉いねって言いたかったんだよ』
「……うん。もう伝わったよそれは」
追い打ちのように掛けてくる言葉の波。
午前四時を過ぎて、もうそろそろ二十分が経とうとしていた。
そんなところで、眠理が別れを切り出してくる。
『じゃあ、もう切らなきゃ。またね辻君』
「……ああ。またな」
――ピロン。
案外あっけなく、通話は終わってしまった。
通話終了の文字が画面に表示され、電話帳にも登録されていない、無機質な携帯番号だけがスマホ画面に表示されていた。
午前四時に掛かってきた電話で、まさかこんなに心のかき乱される話を聞くなんて思ってもいなかった。
眠くなりかけていたはずなのに。
夜が尾を引いて、まだ夢も見れそうだったのに。
雛数はそれから、キッチンで冷たい水でも飲もうと思ったのだった。
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