07
◇
眠理と話したその日(土曜日)は、午後からアルバイトの予定が入っていた。
自転車でいつも通り向かっているその道すがら。
青葉の生い茂る並木道をスーッと自転車で通過していると、ふと、明け方の四時に話していたあの会話を思い出してしまう。
――辻君は誰かに感謝されてるよ。
木漏れ日が雛数の顔に当たっては過ぎていく。
そんな中、眠理の言葉が彼の脳裏にちらつく。
雛数はなぜか、あのセリフだけ妙に印象に残っていた。
思い出すたびに「自分が感謝されてる? いやいや、それはとんだ買い被りだ」と、否定的な感情がふつふつと湧いてきてしまう。
けれど、おそらく眠理はなんの悪気もなくああ言っていたはずで。
電話の向こうにいる見ず知らずの男子『辻君』に対して、「君はアルバイトを頑張っていて偉いね」と、賛美を送りたかった。
ただそれだけに違いなかったのだけれど。
(何も知らないはずの女子に……)
雛数は愛想のない男子だ。
眠理の言うような、さわやかな笑顔だとか、スマートな心配りみたいなものとは縁遠いのだ。
だからこれは……
(ひょっとして劣等感……なのか……?)
眠理の想像する『辻君』が、実際の自分とかけ離れていることに対しての、強い劣等感なのかもしれない。
(でも、普通に考えたら、アイツはなんの悪気もなく俺を褒めようとしていたんだよな)
イタズラ電話を掛けてくる人間なんて、ろくな人間じゃない、はず。
そう思っていたのに、面白半分で話を聞いてみれば、思いのほか彼女は優しいことを言う。
雛数は、自分が劣等感にどうのこうと苛まれている反面で、一般的にはアレが他人を励ますものであるとわかっていた。
どういう意図であんな電話をかけているのかはわからない。
けれど、嫌な気がしなかったのはその優しさのせいだ。
事実、学校とアルバイトを繰り返すだけの日々につまらなさを覚えていた彼には、眠理とのやり取りが妙に心地よく感じられていたのだった。
◇
前述のとおり、雛数は『がまのふた』に午後から出勤した。
お店は外から見てもわかるくらい客入りが激しくて、店前の数台停められる駐車スペースはもうパンパン。
さすが休日のお昼時。
ここで稼がなければ君達に明日はないといった世紀末っぷりである。
「おはようございまーす」
裏の勝手口から厨房に入る。
いつもの軽い挨拶をしてから、雛数は一度休憩室へ向かう。
休憩室は、厨房の業務用冷蔵庫を通り過ぎた先にある。
通り過ぎようとしたその時、ガマの一声が飛んでくる。
「おお辻君⁉ 早く着替えて! 俺達を助けて!」
「……了解っす」
早く助けないといけないらしい。
ガマ店長に救援要請を受けたので、雛数はガマの後ろ姿にサッと敬礼をし、厨房から姿を消した。
あの慌てぶり。
今月に入ってから一番のものかもしれない。
そう考えつつ、雛数は休憩室備え付けのロッカーに入っていた制服に手を掛ける。
ガマのヒイヒイ言ってる姿が面白く思えたのは、雛数の性格が悪いからかもしれない。
テーブルの上に置かれてあった小さな卓上時計に目を向けると、時刻は間もなくお昼十二時を示そうかというところだった。
(今日はいつもより混むのが早かったんだな)
お店に入ってくるとき、すでに駐車スペースはいっぱいだった。
あそこに止められる車の台数は、明らかにこの店の収容人数より少なくて。
きっと近隣の大型スーパーに設けられてある大規模な駐車場に車を停め、そこからてくてくと歩いてくる人もいるのだろう。
(まぁ、駐車スペースの設計ミスってる方が悪いとも思うが)
建築系の専門学校へ通っていると、授業でこうした設計うんぬんの話も当然受けてはいて。
たまに、日常のなにげない場面で設計の知識が脳裏をよぎったりするところも、専門学生らしいといえば専門学生らしく。
「辻君⁉ もうそろそろ時間じゃないのか⁉ 早く助けてくれ!」
「あ、はい」
突然休憩室の扉を開けられ、ガマが声を張り上げてくる。
雛数は持ち前の不愛想な返答をし、素早くホールへと駆り出されていった。
◇
お昼のピークが次第に落ち着き始めた十二時半頃。
お客は窓際のテーブル席に座る家族連れと、そこから一つ飛ばしにテーブル席に座る大人のカップルの二組だけとなっていた。
ダヴィは「お先~っす」と、いつもの調子でお昼に入ってしまい、現在出ているのはガマ店長、雛数、早川の三名だけだった。
「辻さん。1番テーブルのお客様に『クレジット決済できますか?』って訊かれたんですけど……」
「ん? あー……うちはクレジット決済やってないですよ。現金のみです。って伝えてきてください」
「はい! ありがとうございますっ!」
この喫茶店『がまのふた』の紅一点が、今しがた1番テーブルへと飛んでいった早川カレンだった。
茶髪のお団子ヘアーが特徴的な、元気いっぱい、天真爛漫な性格の女子大生である。
彼女は、雛数より一か月ほど遅れてアルバイトとして入ってきたわけだが、不愛想な雛数に対しても持ち前の明るさでグイグイ質問してくる子だった。
要するに、素直でとても良い子である。
「ふぅー。さっきはありがとごうざいましたぁ、辻さんっ♪」
「いや、別に」
1番テーブルへ用件を伝えたあと、彼女は雛数にサラッとお礼を述べる。
無論、雛数は大したリアクションもせず、「今日もこの人、無駄に元気だな」くらいにしか思っていなかった。
割と雑な対応である。が、それもそのはず。
彼女、早川カレンは雛数に敬語を使って話しかけているが、実はこの二人、同い年である。
ただ、アルバイトとして雇われはじめた期間が一か月ほど違うというだけで、店では先輩後輩という関係性だった。
「あの……さ、早川さん。前から思ってたんすけど、俺達同い年だし、別に敬語とかいいですよ? 疲れるでしょ?」
「え? いやいや! そういうわけにも行かないですよ! 辻さんの方が仕事できるんですから! 先輩ですよ先輩!」
カレンは両手と顔をぶんぶん振り、大げさに拒んでみせる。
同い年なのに先輩とは。
雛数は若干、頭が痛くなる。
(仮に、本当にここで先輩後輩の関係で仕事をしていたとしても、一歩お店の外へ出たらただの同学年だよな? ……うん。単純にめんどくさいな)
「……」
雛数はじっと彼女の表情を見つめ、「あえて疲れるほう選んでるのか?」とまた別の感想を頭の中に浮かべていると……。
――ピンポーンッ♪
3番テーブルの呼び出し音が鳴り響く。
「はい、ただいまー」
マニュアル的なその声をあげ、雛数は注文伝票を手にお客様のもとへ向かう。
3番テーブルのお客は、三十台くらいの男女。静かに過ごしてくれそうな、一組の大人のカップルだった。
女性の方は落ち着いたグレーのブラウスとパンツ。男性の方も、簡単なワイシャツにパンツといった姿だった。
見た目的にも、特におかしな点も見当たらない人達かと思っていたのだが。
「おい、これどういう事だ?」
「はい?」
呼び出しからまず第一声、二人のうち男性のほうが、ナポリタンの盛られている皿をぐいっと雛数に差し出してみせる。
「どう、と言いますと……?」
「コレだよコレ‼ 虫、入ってんだろうがぁ⁉」
「え?」
雛数は男性の出してきたナポリタンに顔を近付け、ビシッと差された指の先をよく見てみる。
すると、小さなハエの死骸がパスタに付着していたのだった。
「……!」
少し固まっていた雛数は、その後チラッと女性の方を見る。
やはり同席していた女性も、男性同様に怒りを覚えていたのか、ものすごい剣幕で雛数のことを睨んでいて。
「あの。あなた、アルバイトさんですよね? 店長さん、呼んでもらえますか?」
「そうだ、店長出せよ! こんなもん客に食わせる気だったのか⁉」
「……」
雛数は罵声を浴びせられつつ、確かにこの状況は店長を呼んだほうがいいだろうな。と割と冷静に判断し、厨房の方へと振り返る。
すると、カウンター近くに立っていたカレンと目が合ったのだけれど……
「……?」
カレンは、慌てた様子で何かを口パクしていた。
「て、ん、ちょ、う、は……?」
雛数がカレンの口パクを読み解いた結果、どうやらガマ店長はお昼休みに入り、たった今お店を出たところのようだった。
なんてタイミングの悪さだろう。これが万事休すってヤツか。と雛数は思った。
「すみません、お客様。あのー……店長なんですけどね、今ちょうど席を外してまして」
「はぁ? じゃあ誰がこの責任取るつもりだよ⁉」
「責任者いないの? ……ていうかあなた、このナポリタン作れないの? さっき厨房でフライパン振ってるの見えたんだけど」
「え? それは…………作れますけど」
「じゃあ今すぐ作って。当然、代金は一皿分しか出さないけどね。いいわよね? だって一皿目のほうは食べられたもんじゃないんだからw」
「……確かに、そうですよね」
怒りに震えている三十代の男女カップルは、もう一皿作れば許してやろうというスタンスのようだった。
(ここで俺が何か判断すべきじゃないんだろうけどな……店長がいないんじゃ……)
お客の言うとおりにするしかないと思った。
「わかりました。……じゃあこれから作り直します」
「早く作れよー? アルバイター君」
テーブルから離れる雛数の背中に、男性のあざ笑うような声が刺さる。
きっと、ガマ店長でも、この状況なら同じように対処したのだろう。
雛数は、そう信じるしかなかった。
厨房へ入る途中、カレンが涙目になりながら雛数の顔を見つめていた。
「……」
なんだか、今にも泣きだしそうな雰囲気である。
(なんで俺じゃなくて、早川さんが泣きそうなんだよ……)
「あの、早川さん。とりあえず大丈夫だから」
「本当……ですか……?」
「うん。たぶん」
カレンは共感性が高いのかもしれない。が、雛数は至って冷静である。
心の大部分で「もうしょうがない」といった気持ちに至っていて。
(アルバイトの自分や早川さんに、責任の取りようなんてないしな)
どうしようもなかった。
こんな風にお客から不満を爆発させられた時の、責任の取り方なんて教えてもらっていないのだから。
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