03
◇
まだ太陽も顔を出さない午前四時。
明るくなれば聞こえてくるはずの小鳥のさえずりも。
日光でみずみずしく照り返すはずの
遠方から響く新聞配達のバイクの音も。
それらすべてが、明けの青白い空気のなかに閉じ込められていた。
雛数は、自分の部屋にいながら、今まで感じたことのない緊迫感を味わっていて。
「……」
080--
十一桁もある長い番号の羅列に、雛数は見覚えがあった。
なぜ、雛数はその番号を覚えていたか。
その答えは単純明快。
番号の下四桁が、偶然彼の誕生日を示す『0801』だったからに他ならなかった。
掛けてきた人物は、間違いなく例のイタ電野郎だ。
それは自信を持って言える。
しかしながら、いくつもの『なぜ?』が雛数の脳裏に浮かんでくる。
なぜ、長谷川先輩に掛けるのをやめたのか。
なぜ、今回に限って長谷川先輩ではなく自分なのか。
なぜ、そもそも番号を知っているのか。
いや、偶然掛けた番号が自分だったのか?
――――などなど、挙げていけばその数は優に十を超えるはずだ。
「あ、先輩に掛けないのは、掛けられないからか。電源切ってるだろうし」
雛数は鳴り響くスマホを手に、じーっと画面を見つめる。
ここで電話に出なければ、もう二度と掛かってこないかもしれない。
それが平穏な日常を崩さない、今考えうる最良の選択のはずだった。
ただ、実際にはそれ以外の思いが脳裏に浮かんできており。
「……」
数秒の間を経て。
――ピロン。
雛数は画面に表示されているバーをスライドさせ、通話を開始したのだった。
「……」
無言のまま、ゆっくりとスマホに耳を当ててみる。
ドクン、ドクン。
妙な緊張から、心臓の鼓動は速くなる。
しかし。
『……』
電話は通じているのだろうけれど、相手方からは何も聞こえてこなかった。
サーッ、という切れ目のない薄いノイズの音だけが、どこか機械的に聞こえていて。
「……」
雛数は生唾を飲み込む。
ああ、こんなにごくんと飲むことも珍しい。
そもそも、なぜ彼がこのイタズラ電話に応じたかと言うと、それは先輩への迷惑行為を注意してやろうと思ったからだった。
相手がどれだけたちの悪い無頼漢でも構わない。
悪いことは悪いと、ただそれだけ注意してやろうと思っていて。
「……あの。えっと……どちらさんか知りませんけど、こういうイタズラ電話はやめたほうがいいですよ」
『……』
反応がない。
しかし、雛数は聞かれているものとして話を続ける。
「……とにかく、もう掛けないでくださいね。……切ります」
――――ピロン。
そこで通話は終わった。
雛数が切る形で終わったので、彼が強制的に終わらせたようなものだ。
ただのノイズ相手に言葉を投げていたわけじゃなかった。
もちろん、雛数のしゃべっていた電話口の先には、しっかりと『誰か』がそこにいたわけで。
◇ ◇ ◇
『……とにかく、もう掛けないでくださいね。……切ります』
そう言って、相手に通話を切られてしまった。
どこかの民家の石塀に寄りかかっていた少女は、通話を切られたあとのスマホ画面を少々眺めていた。
数秒して、画面は自動的にブラックアウト。
それから彼女は、深い藍色のスマホカバーケースから四つ折りにされたメモ紙を抜き取る。
番号だけが書かれていたそのメモ紙は、少々ボロボロになっていて。
「良い子ぶりっ子だね」
澄んだ
誰に言うでもなく。
誰に聞かれるでもなくそう口にした彼女は、数秒後にクスッとほくそ笑む。
まとう雰囲気は柔らかい。
着ていたパーカーのポケットにスマホを隠し入れる。
石塀に預けていた背中を起こし、そのままだらだらと街を歩く。
午前四時の街並みは、青く染まりきっていて、まるで別世界に見えた。
肌に感じる空気も、鼻先にかするどこか雨の残ったような匂いも、すべてが青く、冷たくて、どこか排他的に思えていた。
だからさっき電話に出てくれた彼には、なんとなく暖かみを感じるんだ。
無機質なものじゃない。
いたずらっ子を正してやろうとする偽善者っぷり。人間臭さ。
――ああ十分だ。これこれ。これがほしかったの。
彼女は、雛数の人間臭さが、とてもお気に召したようだ。
その証拠に、一人きりの今も彼女の口角はやけに持ち上がっていた。
◇ ◇ ◇
午前九時、十分前。
雛数はアルバイト先である喫茶店『がまのふた』で規定の制服に着替えていた。
ワインレッドのポロシャツ。
胸のところにカエルの刺繍が入っているけれど、かわいいテイストではない。
その刺繍はカエルの口がデカすぎて、むしろ口が本体のようにも見える。
「長谷川先輩、今日は顔色いいっすね」
「ん? ふふふ~ん? やっぱ、わかるかぁ?」
雛数の横で、長谷川ダヴィもまた上半身裸になっていた。
余裕ありげな表情をしつつ、ダヴィはバイト用の制服に着替える。
着替え終えたところで、やや沈黙していた雛数はセリフを返した。
「……わかりますよ。きっと昨日はすやすや眠れたんじゃないですか?」
「ああ」
「よかったですね」
「お前の言う通り、電源を切って寝たからな~。サンキューサンキュー♪」
「あはは…………。ま、代わりに俺の方に掛かってきましたけどね。電話」
「……はい?」
ボソッとつぶやいた雛数の言葉に、ダヴィは一瞬固まる。
ゆっくりと雛数に顔を向け、理解が追い付かない。そんな顔をしてみせる。
「辻君に掛けてきた⁉ あの、イタ電野郎がか⁉」
「そうなんすよ。俺もかなり困惑しましたけど」
「……」
「掛けてきた時刻と番号は覚えていたんで、間違いないですね」
「……それはなんともまあw ご愁傷様!」
ダヴィは雛数に親指を立ててみる。グッドを送りたいらしい。
「先輩。ご愁傷様の使い方間違えてますよ」
「ふっふふふw」
ダヴィの、線の細い涼しげな顔面がにんまりと歪む。
なぜ雛数にイタ電が掛かってきたのかは不明だったけれど、ダヴィは先日の「ファイトです」と言われていた形勢から一転。
今度は自分が彼を笑える立場になった。そのことに喜んでいたのだった。
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