03


 まだ太陽も顔を出さない午前四時。

 明るくなれば聞こえてくるはずの小鳥のさえずりも。


 日光でみずみずしく照り返すはずの紫陽花あじさいの葉も。

 遠方から響く新聞配達のバイクの音も。


 それらすべてが、明けの青白い空気のなかに閉じ込められていた。


 雛数は、自分の部屋にいながら、今まで感じたことのない緊迫感を味わっていて。


「……」


 080--


 十一桁もある長い番号の羅列に、雛数は見覚えがあった。


 なぜ、雛数はその番号を覚えていたか。


 その答えは単純明快。

 番号の下四桁が、偶然彼の誕生日を示す『0801』だったからに他ならなかった。


 掛けてきた人物は、間違いなく例のイタ電野郎だ。

 それは自信を持って言える。


 しかしながら、いくつもの『なぜ?』が雛数の脳裏に浮かんでくる。


 なぜ、長谷川先輩に掛けるのをやめたのか。

 なぜ、今回に限って長谷川先輩ではなく自分なのか。


 なぜ、そもそも番号を知っているのか。


 いや、偶然掛けた番号が自分だったのか?


――――などなど、挙げていけばその数は優に十を超えるはずだ。


「あ、先輩に掛けないのは、か。電源切ってるだろうし」


 雛数は鳴り響くスマホを手に、じーっと画面を見つめる。


 ここで電話に出なければ、もう二度と掛かってこないかもしれない。


 それが平穏な日常を崩さない、今考えうる最良の選択のはずだった。

 ただ、実際にはそれ以外の思いが脳裏に浮かんできており。


「……」


 数秒の間を経て。


 ――ピロン。


 雛数は画面に表示されているバーをスライドさせ、通話を開始したのだった。



「……」



 無言のまま、ゆっくりとスマホに耳を当ててみる。


 ドクン、ドクン。


 妙な緊張から、心臓の鼓動は速くなる。

 しかし。


『……』


 電話は通じているのだろうけれど、相手方からは何も聞こえてこなかった。


 サーッ、という切れ目のない薄いノイズの音だけが、どこか機械的に聞こえていて。


「……」


 雛数は生唾を飲み込む。

 ああ、こんなにごくんと飲むことも珍しい。


 そもそも、なぜ彼がこのイタズラ電話に応じたかと言うと、それは先輩への迷惑行為を注意してやろうと思ったからだった。


 相手がどれだけたちの悪い無頼漢でも構わない。

 悪いことは悪いと、ただそれだけ注意してやろうと思っていて。


「……あの。えっと……どちらさんか知りませんけど、こういうイタズラ電話はやめたほうがいいですよ」


『……』


 反応がない。

 しかし、雛数は聞かれているものとして話を続ける。


「……とにかく、もう掛けないでくださいね。……切ります」



 ――――ピロン。



 そこで通話は終わった。


 雛数が切る形で終わったので、彼が強制的に終わらせたようなものだ。


 ただのノイズ相手に言葉を投げていたわけじゃなかった。


 もちろん、雛数のしゃべっていた電話口の先には、しっかりと『誰か』がそこにいたわけで。


 ◇ ◇ ◇



『……とにかく、もう掛けないでくださいね。……切ります』


 そう言って、相手に通話を切られてしまった。


 どこかの民家の石塀に寄りかかっていた少女は、通話を切られたあとのスマホ画面を少々眺めていた。


 数秒して、画面は自動的にブラックアウト。


 それから彼女は、深い藍色のスマホカバーケースから四つ折りにされたメモ紙を抜き取る。


 番号だけが書かれていたそのメモ紙は、少々ボロボロになっていて。



「良い子ぶりっ子だね」


 澄んだ山清水やましみずみたいに清涼感のある声。


 誰に言うでもなく。

 誰に聞かれるでもなくそう口にした彼女は、数秒後にクスッとほくそ笑む。


 まとう雰囲気は柔らかい。


 着ていたパーカーのポケットにスマホを隠し入れる。


 石塀に預けていた背中を起こし、そのままだらだらと街を歩く。


 午前四時の街並みは、青く染まりきっていて、まるで別世界に見えた。


 肌に感じる空気も、鼻先にかするどこか雨の残ったような匂いも、すべてが青く、冷たくて、どこか排他的に思えていた。


 だからさっき電話に出てくれた彼には、なんとなく暖かみを感じるんだ。


 無機質なものじゃない。


 いたずらっ子を正してやろうとする偽善者っぷり。人間臭さ。


 ――ああ十分だ。これこれ。これがほしかったの。


 彼女は、雛数の人間臭さが、とてもお気に召したようだ。


 その証拠に、一人きりの今も彼女の口角はやけに持ち上がっていた。



 ◇ ◇ ◇



 午前九時、十分前。


 雛数はアルバイト先である喫茶店『がまのふた』で規定の制服に着替えていた。


 ワインレッドのポロシャツ。

 胸のところにカエルの刺繍が入っているけれど、かわいいテイストではない。

 その刺繍はカエルの口がデカすぎて、むしろ口が本体のようにも見える。


「長谷川先輩、今日は顔色いいっすね」


「ん? ふふふ~ん? やっぱ、わかるかぁ?」


 雛数の横で、長谷川ダヴィもまた上半身裸になっていた。


 余裕ありげな表情をしつつ、ダヴィはバイト用の制服に着替える。

 着替え終えたところで、やや沈黙していた雛数はセリフを返した。


「……わかりますよ。きっと昨日はすやすや眠れたんじゃないですか?」


「ああ」


「よかったですね」


「お前の言う通り、電源を切って寝たからな~。サンキューサンキュー♪」


「あはは…………。ま、代わりに俺の方に掛かってきましたけどね。電話」


「……はい?」


 ボソッとつぶやいた雛数の言葉に、ダヴィは一瞬固まる。

 ゆっくりと雛数に顔を向け、理解が追い付かない。そんな顔をしてみせる。


「辻君に掛けてきた⁉ あの、イタ電野郎がか⁉」


「そうなんすよ。俺もかなり困惑しましたけど」


「……」


「掛けてきた時刻と番号は覚えていたんで、間違いないですね」


「……それはなんともまあw ご愁傷様!」


 ダヴィは雛数に親指を立ててみる。グッドを送りたいらしい。


「先輩。ご愁傷様の使い方間違えてますよ」


「ふっふふふw」


 ダヴィの、線の細い涼しげな顔面がにんまりと歪む。


 なぜ雛数にイタ電が掛かってきたのかは不明だったけれど、ダヴィは先日の「ファイトです」と言われていた形勢から一転。

 今度は自分が彼を笑える立場になった。そのことに喜んでいたのだった。

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