第4話 ナハト


 目が覚めると見知らぬ家の中に居た。匂いから、男が1人と雄犬が1匹暮らしている事が分かった。

 起き上がると、折ったであろう箇所は既に再生していた。


よく分からないが、このまま此処に居るのは不味い。


 私は家主に気付かれぬ内に家を出ようとドアに向かった。すると背後から「恩知らずめ」と非難された。

 振り向くと、若く神経質そうな犬がこちらを睨み付けている。


「わざわざハンスが助けてやったというのに、挨拶も無しに出ていくつもりか?」

「……頼んでねぇよ」


 反射的に吐き捨てるような言葉が私の口から飛び出した。

その瞬間、犬は私に体当たりし、倒れたところを押さえ付けてきた。


「こんなガリガリでよく言えたモノだな?……私はな、お前がどうなろうと知ったこっちゃない。だが、この状態のお前をこのまま外に逃がしたらハンスが悲しむ。だから止めている。分かったなら寝床に戻れ」


 そう言うと、犬はグッと体重をかけてくる。私は下から睨み付ける事しか出来なかった。

 私達のやり取りに“ハンス”が気付いたのだろう、男が「止めろ!ミターク!」と言って犬を引き剥がした。犬…もといミタークは大人しくハンスに従った。

 ハンスは私の体を検分すると「殴られた時の傷が無い…?」と不思議そうな顔をしたが、すぐに「お前、治りが早いんだな」と謎の納得をしてワシャワシャと私の腹を撫でたのだった。


 私は改めてハンスの顔を見て、彼が警官だという事に気が付いた。一度トーマス達と森での行方不明者を探す手伝いをした時に会った事がある。

 ハンスの方も私に見覚えがあったようで「お前、もしかしてトーマスさんの所の犬か?」と呟いた。


「確か……“ナハト”だったっけか?」

「違う」


思わずそうツッコミを入れると、名前を呼ばれて返事をしたんだと勘違いされて「そうか、お前ナハトか!」と、私の名前はこの時から“ナハト”になってしまった。


「トーマスさんが死んで野良犬になったって事か……よく生きてたな」


 そう言ってハンスは私の顔を撫でた。ミタークはその様子をジッと見ている。彼は中々嫉妬深いようだ。


何とも面倒な事になった。


そう思わざるを得なかった。



 ミタークは警察犬として働いているようで、私の体重が戻ってきたタイミングでハンスは私にも警察犬としての訓練を始めた。

 訓練自体は別にどうって事は無いが、私が褒められる度にミタークが敵がい心バリバリにしてくるのが面倒臭い。

 その事に気付いたハンスが、途中から「ナハト!よくやった!ミタークも大人しくしてて偉いぞ~!」と、私を褒める時はミタークも一緒に褒めるようになった。



 逃げる気も失せ、何だかんだ言ってミターク達にも慣れてきたある日、私達は行方不明者の捜索に駆り出され、森へ行く事になった。

 森の入り口まで来た時、私の足は『捜索に行かなければ』という意識に反して、どうしても動かなかった。


 ビシュラの最期が思考を占める。


 一歩も動けなくなってしまった私を、ハンスは一旦捜索ボランティアに預け、ミタークだけ連れて森へ入っていった。

 入っていく直前、ミタークは何か言いたげな顔でこちらを見ていた。



 一足先に家でハンス達を待っていると、足元をドロドロに汚した二人が帰ってきた。

 どうやら昨日降った大雨のせいで足場が大分悪かったらしい。ハンスの話によると、雪もまだ残っているし「早く見付けないと」と焦っていた。


 その日の夜、寝る前にミタークが「何故動かなかったのか」と責めるような声音で訊いてきた。

 一瞬、適当に誤魔化そうかとも思ったが、気付いたら全てを話していた。


きっと誰かに責めて欲しかったのだろう。

「お前のせいだ」と。


 しかし、私の話を黙って聞いていたミタークの返しは意外なモノだった。


「全てを自分のせいにして満足か?」


 その、酷く冷めた言葉に狼狽えていると「それは傲慢だとは思わないのか?」とミタークは続けた。


「……」

「もう一度言おう。傲慢だ、それは」


 彼はそれだけ言うと背を向け眠り始めた。私はその背を見ながら、言われた言葉の意味について考えていた。



 森での捜索開始から3日後、行方不明者が遺体で発見された。現場の状況から泥に足を滑らせ、増水していた川に転落したものと思われた。

 その遺体を発見したのはミタークで、遺族はハンスとミタークに悲しみながらも感謝していた。

ハンスも彼を褒めていたが、ミタークの表情は悲痛そのものだった。



「俺もいつも間に合わないんだ。」


深夜、独り言のような、懺悔のような言葉がミタークの寝床から聞こえてきた。


「俺がもっと早く見つけていたらあの人達は生きてたんじゃないかって。そう思うと、探すのが怖い時がある。…だからその度に『死んでても俺のせいじゃない』『仕方なったんだ』って自分を誤魔化す。卑怯者なんだ、俺。」


掛ける言葉を持ち合わせない私は、彼に近付いて顔を舐めてやる事しか出来なかった。



その夜からしばらく経ったある雨の日、日課であるパトロールがてらの散歩をしていると、ミタークが急に立ち止まった。

 ハンスと一緒にどうしたんだろうと見ていると、今度はいきなり走り始めた。

 ハンスが慌てて彼のリードを引く。それでもミタークは前に進もうとする為、首元が圧迫されて苦しそうだった。


「落ち着け!ミターク!」

「行かせてくれ、ハンス!間に合わなくなる!」

「どうしたの?間に合わないって何に?」


 私がそう訊くと少し落ち着いたのか、ミタークは「子供が死ぬかもしれない。」と答えた。


「子供が?」

「……何年も前から、雨の日に子供が行方不明になる事があるんだ。その時には決まって、遺体の側からオレンジのような嫌な匂いがする。今、ここから同じ匂いがした。」

「連続殺人って事?」

「あぁ……ハンスは不幸な事故だと思ってるようだが。」


 私も神経を集中させてみた。確かに雨の匂いに混じってオレンジの匂いがした。匂いは森の方へと続いている。


「行ってみよう。」


 ふたりでハンスを引っ張るようにして森の方へと進む。ハンスは諦めたのか、困惑しながらついてくる。


 森の入り口まで来た時、ミタークが心配そうにこちらを見た。私は「大丈夫。行こう。」と返し、歩みを進めた。

 その時にはハンスも何かを察しているのか、私達のリードを引っ張る事は無かった。


 雨と草木の匂いで掻き消されそうになるが、何とかオレンジの匂いを追う。

 不意に、川の方から人の声と“バシャバシャ”と何かが水を叩く音がした。ハンスにも聞こえたようで、急いで音のした方に向かう。


 川の中に男が、こちらに背を向ける形で立っていた。その足元の水面から子供の手足が見えた。


 男が子供を川に沈めようと、押さえ付けているのだ。


 「貴様!何をしている!」とハンスが怒鳴った。男はこちらに気付くと、慌ててその場から逃げ出した。

ミタークとふたり、男を追う。


 中々足が早い男だったが、こちらは犬だ。モノの数分で追い付いた。

 男はゼーゼー言いながら、私達を追い払おうと懐から出したナイフを闇雲に振り回す。

 それを一定の距離を保って躱す。ミタークが一瞬の隙をついてナイフを持っている右腕に噛み付いた。


「ギャッ!」


 男は痛みからだろう、反射的にミタークの体を地面に叩き付けた。しかし、ミタークは離さない。絶対に離すモノかという気迫を感じた。

 男がもう一度叩き付けようと腕を上げた瞬間、今度は私が左脇腹に噛み付くと、男はとうとう倒れ込んだのだった。



「離せよ……離してくれ……」


 ハンスが来るまで私達は男から口を離さなかった。

 少しして、来た方向から「ミターク!ナハト!」と私達を呼ぶ声がした。

 ミタークが「ここだ!」と返事をし、男の右腕から口を離した。

その時を待っていたのだろう、男は自由になった腕で私の事を刺した。

 ナイフが深々と刺さる。痛みと共に内側から血が溢れてくるのが分かった。だが、私は口を離さなかった。男は何度も刺した。ミタークがもう一度右腕を噛もうとするが、彼が近付く度に男はナイフを振り回す為、中々近付けなかった。


「クソッ!死ねっ!死ねよ!」


 男がナイフを抜き刺しする度に出血と再生を繰り返す。痛みで意識が飛びそうになったが、私は離さなかった。

 私を殺す事に集中していた男の鼻っ柱を、やって来たハンスが思いっきり殴ると男は殴られた衝撃で気絶した。

私はやっと男から口を離した。


「ナハト!大丈夫か!」


 ハンスが泣きそうな顔で私の体を見るが、その顔が次第に困惑に染まっていくのが見て取れた。


この表情を、私は知っている。


 私はハンスに体当たりすると、彼から走って逃げた。


「ナハト!」


 ミタークが私の名を叫んだ。

私は、かつて共に過ごした老犬のように「ミターク!後は頼んだ!」と彼に言うと、まっすぐ森の奥へと走り出した。


一度も振り返らなかった。

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