第2話 リヒト
新しい飼い主はトーマスといった。トーマスは私に“リヒト”と名付けた。
彼は私を猟犬に育てたいようでとても躾の厳しい人だった。
彼の指示を一つでも間違えると叱られ、時にはオヤツを抜きにされるので、私はなるだけ従順に振る舞うようにした。
私はこの家に来て、今の自分は人ではなく“犬”なのだと改めて実感した。
家には私以外にもう1匹犬が居た。名はレンツ。
レンツは私よりも大分歳上で老犬っと言って差し支えなかった。しかし、猟に出ているからだろうか。どこか若々しく強く大きい犬だった。
ただ、レンツの性格は私とはあまり合わなかった。
彼は粗暴で自分勝手、しかもお喋りな男だった。
この家に来てから何度食事を横から奪われ、いたずらに顔を噛まれ、昼寝の邪魔をされた事だろう。
その度に怒れば「弱い奴が悪い」「噛み易い頭をしてるのが悪い」「年長者の話は有り難く聞くモノだろ?」と悪びれもせずに言い放った。
ふたりは4~5日の頻度で猟をしに森へ行く。
毎回では無いが、高い確率で仕留めた野鳥や小動物を持って帰宅するので、普段の言動は兎も角、レンツは優秀な猟犬であるようだった。
家に来て1年程経った頃、私も森に連れていかれた。森へ着くとトーマスは私とレンツのリードを外し、獲物である鳥を探すよう命令した。
森の中自体はこれまでも訓練で歩いてきたが、猟に参加するのは今回が初めてだ。
緊張する私をレンツは鼻で笑ってドンドン森の奥へと歩を進める。私はそんな彼の後を追うのが癪で、途中から別の方向を歩き始めた。トーマスは私達の数メートル後ろを、弓を持ってついてくる。
どれだけの時間歩いただろうか。不意に草木や土、森に住む獣の匂いに混じって、鳥の匂いがした。
4~5メートル程先に数匹居るのが分かる。私は教えられた通り、獲物がいる時の合図として、その場に留まりトーマスの方を向いた。
合図に気付いたトーマスが“吠えろ”のハンドサインを出す。
すかさず鳥達に向かって「ワンッ」と吠えれば、想定通りバサバサッと飛び立つ。その内の1匹をトーマスが弓矢で射った。
私は仕留めた鳥の死骸を咥え、トーマスの元へと駆け寄る。彼はそれを受け取ると私の頭を撫で「よくやった」と静かに褒めた。
私の狩猟デビューは幸先の良い出だしとなった。
それからはレンツと共に私も猟に連れて行かれるようになった。
でも毎回猟に成功するかといったらそんな事はなく、獲物が見付からずボウズで終わったり、見付けても吠える前に勘づかれて逃げられたりした。その度にレンツに「お前は気配を消すのが下手なんだよ!」と揶揄された。
しかし、何年にも渡って猟を繰り返す内、出会った頃のレンツ程では無いが、私も猟犬としてそれなりに成果を残せるようになった。
だが、反対にレンツは歳のせいか、段々と獲物が見付けられなくなっていった。森を歩き回る体力も衰えているのが見てとれた。
ある時レンツに「お前は良いな、若くて」なんて言われた。
私が「レンツだってまだまだ現役でしょ?」と返せば、彼は目を伏せそれ以上何も言わなかった。
本当はお互いに、もう潮時だろうと分かっていた。
ある秋の日、私達はいつものように猟に向かった。
少し前まで黄色く色づいていた木々はすっかり葉が寂しくなり、日が傾くのも早くなった。沁々と冬が近付いているなと思いながら獲物を探していると、いきなり肌を刺す程の強烈な威圧感を感じた。
熊だ。近くに熊がいる。
神経を研ぎ澄ませ、熊がどこに居るか探る。前方15メートル程先で黒い物体が動くのが見えた。
遠くからでも、こちらを見つめているのが分かる。
ここで引いたらアイツは襲ってくるだろう。そう確信があった。
私は熊から視線を反らさずゆっくりと歩き出した。すると同じだけ相手も近付いてくる。
どうする…真っ正面から行くしかないのか。トーマスは熊に気付いているだろうか。
内心焦りながらも歩みを続け、互いの距離が10メートルを切った瞬間、相手がこちらに向かって走り出した。
私は声の限り吠え威嚇する。だが熊は怯まず、その前足で私の体を凪払おうとした。
しかし、攻撃が私にぶつかる事はなかった。熊がいきなり悲鳴を上げ、体をくねらせ始めたのだ。
見ると、尻の辺りにレンツが噛みついている。
「レンツ!」
トーマスが彼の名を呼ぶと、跳ねるようにして熊から離れた。それを見計らってトーマスが矢を放つ。矢は首元に刺さり、熊は叫び声を上げながら森の奥へと逃げていった。
「レンツ、リヒト、戻れ。」
トーマスが私達に戻るよう命令を下した。流石に今日はもう猟は中止だろう。私は命令通り彼の元へと向かうが、レンツはその場に留まったまま動こうとしない。
「レンツ、戻れ。」
トーマスが再度声を掛ける。すると彼は熊を追うように森の奥へと駆けていった。
「レンツ、追うな!」
ふたりして慌てて彼の後を追うが、90歳近い老犬のハズなのに中々追い付けない。追ってる最中トーマスの方を振り返ると、完全に息が上がっていた。
「レンツ!」
はあはあと息も絶え絶えになりながらトーマスが彼の名を呼ぶと、レンツは一瞬足を止め、こちらを振り向いた。
「リヒト!後は頼んだ!」
それだけ言うと、レンツは再び駆けて行ってしまった。
そうして二度と会う事はなかった。
トーマス自身が老いた事も関係しているんだろうが、レンツが消えてから猟に行く回数がガクッと減り、その内森へ全く行かなくなってしまった。
猟へ行かなくなると、トーマスはますます老け込んでいき、2年も経つ頃にはヨボヨボのお爺さんになってしまった。
私はトーマスのその姿を見て、かつてレンツが言っていた事を思い出す。
「俺はよ、森で死にたいんだ。ガリガリのヨボヨボになって生き永らえる位なら、そうなる前にこのまま“猟犬”として、あの森で死にたい。」
彼はその望みを叶えたのだ。相棒であるトーマスを捨てて。
ある日私はトーマスから独特な匂いがしてる事に気が付いた。
その匂いは日ごとに強くなり、それと比例するかのように彼の体調も悪化していき、最終的にはベッドから起きられなくなった。
これは死の匂いだ。
トーマスの側に座りながら、そんな事をぼんやりと思った。
彼はベッドの中から手を出し、私の頭を撫でると「ゴメンな」と謝った。
それは今日私に餌をやれてない事に対する謝罪なのか、それとも私を置いていく事に対する謝罪なのか。
しばらくしてトーマスは息を引き取った。
私は家を出て、近所に住むペーター宅へと向かった。
ペーターはひとりで現れた私に大変驚いていたが、私が「ついてきて欲しい」と言い、家の方向に歩き出すと、言葉が分からないなりにも何かを察したのかついてきてくれた。
「トーマスさん!」
部屋から狼狽えるペーターの声が聞こえる。これで、トーマスの体が弔われないという事は無いだろう。
私はペーターに気付かれないよう、静かにその場を後にした。
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