第9話 白銀狼

 風呂場から出て、脱衣所で寝間着の代わりにしている短パンとTシャツに着替えた漣は扉を開けた瞬間、腹の底から「うおお」と吠えた。

 寝室のドアが開いている。

 そこには大の成人男性が三人ぐらい肩組をしたらそうなるだろうと言う大きさの白銀狼はくぎんろうがいたからだ。


「さっぱりしたか?」

「うん」


 イグジストは既にベッドに上がっていて、寝そべりながら機嫌良さそうにふさふさ尻尾を上下に揺らした。ああ、見ているだけでも堪らない。

 今日は彼のもふりに甘えて寝られる。

 そして漣は甘えてと言う言葉が脳裏を過ったことで、ふいに硬直した。


 甘えたいからもふりたいのか。


 そんなはずはないはずだ。セーフティブランケットより、イグジストの毛皮の方が数段手触りが良くてふかふかで絹のように艶やかだからだ。それだけだ。


「入ってもいい?」

「当たり前じゃないか。ここはお前の寝所だろう」


 この離宮が全部自分に与えられた住居だと言われても、未だにピンときていない。


「さあ、おいで」


 片腕をあげたイグジストが腹の辺りを広げてくれた。


「いいの? ほんとに」

「ああ。君がそうして欲しいのならば喜んで」


 恐る恐るベッドに乗り上げた漣は腹の毛皮にそっと触れた。温かかった。イグジストの呼吸も手のひらに伝わった。

 蓮はその腹の辺りに寝転んだ。耳を当てると心臓の音まで聞こえてくる。

 

「さあ、お休み」


 イグジストは掲げていた腕を下ろして漣を包んだ。

 その時なにかがぶわっと決壊するかのように涙があふれた。これまでの人生でこんな風に包み込まれて眠ったことがあっただろうか。

 女とセックスした後も、早々にシャワーを浴びてホテルなり、彼女の部屋なりを出ていくことが常だった。


 この白銀狼皇帝は、いくつもの壁を易々超えて迫ってくる。


「どうかしたのか?」

「俺さ。……孤児院育ちだろ? スタッフは消灯時間になったら全室回って点検だけして終わりなんだ。だから」

「だからセーフティブランケットが、君にとってとても大切だったんだね」


 あやすかのようにぽふぽふした弾力のある肉球で背中を叩かれ、さらに涙が頬を濡らした。

 寂しかった。

 自分だけでは気がつかないほど孤独な人生だったと思う。 

 自分はヘソの尾がついた状態で孤児院の裏口に捨てられた。だから母も知らない。父も知らない。彼らが今はどこにいて、どんな暮らしをしているのかも、本当の苗字もわからない。

 それで何か不便なのかといわれれば特に不自由はないのだが、今でも自分がどこの誰なのかわからない不安定さに揺れている。

 だからこそ一匹狼を決め込んで、他人を寄せつけずにきていた気がした。


 はなをすすった蓮はサイドテーブルの引き出しからティッシュをとって、豪快に洟を噛む。なんだか二十四年間分泣いた気分だ。


「あー、でも。あんたの毛皮がびしょ濡れだ」

「心配いらない。こっちへおいで」


 

 

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