第7話 皇帝の匂い

「どうぞ。こちらでございます」


 側近のあとに続いて宮廷内をしばらく歩くと、木製の両開け扉に手のひらを向けられた。


「こちらでござます」


 差し向けられた部屋からは、微かに硫黄の匂いがした。おそらくただの湯ではなくて温泉だろう。

 この平穏すぎる国に攻め込む国があったとしたら、傷ついた兵士の療養の湯も宮廷内にはあるのだろう。


「ねえ。もしもどこかの国に攻め込まれたらどうすんの?」

「皇帝陛下の指揮のもと、陸軍海軍一致団結して戦うまでです」


 のほほんとした物言いだ。

 実際にはとても応戦なんかできそうにもないだろう。


「タオルも着替えも用意させております。中の脱衣所でお使いください」


 脱衣所の扉を更に開けた側近の肩越しに脱衣所らしき場所が見える。

 シュエルフには、きちんと畳まれたバスタオルやフェイスタオル。反対側には鏡と水受けのボウルと椅子が置いてある。鏡の前にはスキンケア用の化粧水や乳液まで並んでいる。


「一時間ほどで夕食の準備を整えます。蓮様もその頃までにはお上がりください」

「わかったよ」


 蓋を取って化粧水の匂いを嗅いでみる。

 蓮には何につけてもまずは匂いを嗅ぐ癖があり、親友の中田優斗なかたゆうとに品が悪いと叱られる。

 その化粧水は薔薇をトップノートにしたフローラル系の香りがした。

 さきほど嗅いだ皇帝の匂いもこういったスキンケアの類だろう。


「今お召しになっていらっしゃるお洋服は洗濯しておきましょうか?」

「えっ? マジで?」

「畏まりました。宮殿にはカジュアルな服装もございますので、蓮様のサイズに合うポロシャツとチノパンと靴下を、シェルフにご用意させておきますので」


 服を脱ぎかけた漣を見て、粛々と小男が引き下がり、脱衣所のドアを閉じた。

 実際に脱いでみると、山の中を散策した形跡がいっぱいだ。

 泥とほこりにまみれた自分で皇帝と食事なんてしなくて良かったと、改めて安堵した。

 ただ、こちらがどんなに汚れていても、あの皇帝ならひとつとして文句は言わない。そんな気がした。


 ガラス戸を押し開け、中に入ると、中央に噴水があり、噴水の中央には女神の彫像がかついだ壺から湯気のたつ湯が注がれている。

 その中に入った湊は壺の下にくぐって入り、注がれる湯に背中を打たせてくつろぐと、思わず深い溜息を吐く。湯は無色透明なのだが、硫黄の成分が含まれた温泉だろうと匂いでわかる。

 

 今日はただ、ハイキングコースから外れて気ままに散策していただけなのに。

 昼間に見たエメラルドグリーンの湖は、風もないのに逆巻くように波打った。

 そうして意識を失い気づくと、宮殿の名にふさわしい天蓋付きのベッドの上で目が覚めた。

 カメラの位置も確認し、圧巻の部屋や庭に思考停止していると、スリーピースの背広にネクタイを締めた男が二人入ってきた。

 長身の美丈夫はイグジスト・バウラス十五世だと言い、北欧の国の八割を占める森の中の宮殿で密かに暮らす統治者だと名乗られた。

 皇帝はオメガの自分に侮蔑の顔や嫌悪感を見せるでもなく、つがいになって子供を産めとまで言い出した。

 わかっているのは、ここまでだ。

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