第2話

 終業式は、赤点だらけの通知表を渡されて終わった。今回の私の成績の落ち込み具合を知っている担任は、こっそりと「大丈夫か?」と聞いてくれた。

 家庭訪問してきては持論を展開して相手を辟易させるような担任もいるらしいが、幸いなことにうちの担任はそういう人ではなかった。私は小さく「ありがとうございます」と頭を下げてから、帰ることにした。

 地図を渡されたので、それを見ながら出かける。ホールには小さく【東上雪奈お通夜】と書かれていた。

 控え室に行くと、全員が真っ黒な背広や喪服を着て、意気消沈としている。もうすっかりとくたびれているのがデフォルトになってしまっているお父さんは、お母さん以上に老け込んでいるように見えた。お母さんはずっと泣き続け、そのたびに叔母さんに宥められている。

 従兄弟たちはというと、満美ちゃんはしらけきった顔、徹くんは寄る辺のなさそうな顔で、邪魔にならないように隅っこに座っていた。

 今の時間帯だったらテレビを点けても、この状態では不謹慎になりそうなバラエティー番組しかなく、消しっぱなしで留めておく他なかった。

 私が「あの……」と声をかけたら、お母さんより先に叔母さんがこちらに振り返った。


「お疲れ様。学校は?」

「まあ……今日から夏休みです」

「そうなの。今、徹がコンビニでおにぎりとお茶買ってきてくれたから、それ食べておきなさい。もうちょっとしたら、ゆきちゃんのお棺を見てあげて」

「……はい」


 私は長机の上に並べられたコンビニのおにぎりとお茶をどうにか食べて、今日の食事とした。お母さんは脱水症状が心配になるほどに泣いているので、私がお父さんに「これ、お母さんの」とペットボトルを差し出すと、お父さんは目尻に皺をつくって「ありがとう」と言いながらそれをお母さんに渡してくれた。

 皆が真っ黒な中、私と満美ちゃん、徹くんの白い制服が際立つ。徹くんは白いシャツにスラックスという姿だし、満美ちゃんも私もそれぞれ白いセーラー服だから、この場ではどうしても浮いてしまう。

 やがて真っ黒な喪服を着たホールの係員さんがこちらまでやってきた。


「それでは、皆さんお棺に詰めるための折り紙や折り鶴、メッセージなどをどうぞ」


 そう言いながら私たちに和柄の入った折り紙や色紙を用意してくれた。私はちらりと控え室に積まれた少女マンガを眺めた。どれもこれも、私が姉のために選んで買ったものだった。私はそれを指差した。


「……お棺の中に、入れてあげてもいいですか?」

「あー……PP加工しているものは難しいので、カバーを外してくだされば」

「わかりました」


 私は姉が読んでいた少女マンガのカバーを、一冊一冊剥がしはじめた。姉は少女マンガに憧れていた。余命もの小説が流行っていて、大概は最期に素敵な恋をして終えられるけれど。姉にはとうとうそんな相手は現れなかった。

 私の高校生活が、少しずつ本当に少しずつ彩られていくのを、姉はどんな想いで見ていたんだろうか。

 羨ましかったんだろうか。妬ましかったんだろうか。寂しかったんだろうか。


「……うう」


 私はとうとう涙を流しはじめた。それに満美ちゃんは「なんで!?」と悲鳴を上げた。慌てた様子で徹くんは私の傍に寄ってきた。


「蛍ちゃん、大丈夫か?」

「……平気。お姉ちゃん、恋に憧れてたから」

「そうなのか?」

「うん……」


 従兄弟たちからしてみれば、姉は妬まれても仕方なかった。

 祖父母の寵愛や優先順位は、いつだって姉が最上位だったのだから。私はその姉の妹だから、仲間意識を持たれてよくしてくれたけれど。でも姉はいつだってお年玉は一番多く、祖父母は会いに行く順番を優先していた。

 だから私が姉に対して浮かべている感情を、正しく理解している人はいないんだ。

 嫌いじゃないんだよ。嫌いになりたかったよ。でも、なれなかったよ。本当にそれだけじゃなかったんだから。

 私は泣きながら、全部の少女マンガのカバーを剥いた。


「……私、お姉ちゃんの妹なのに、なんにもできなかった……なんにもできなかった……」

「ちょっと……なんでいっつもほたちゃんそうなの!?」


 満美ちゃんが悲鳴のような声を上げる。


「ほたちゃん、それは多分間違ってるよ。ほたちゃんが自虐していい話じゃない」

「でも……私はそれでも……」

「嫌いじゃないならそれでいいけど、わざわざ好きにならなくってもいいじゃない」

「おい、満美!?」


 またしても徹くんは悲鳴を上げるものの、満美ちゃんは無視した。

 そして私が剥がしたカバーを全部彼女がくるりと持つ。


「家族間の感情が好き100%か、嫌い100%とか、そんなんありえないから。不謹慎だとしても、好きも嫌いも普通にあるよ。なんでそれを特別視して、卑下するの。意味わかんない」

「私……」

「あぁーん、もう! なんでそこで泣くの!? もういいじゃない! ほら、折り紙! 鶴でも折ろう!」


 そう言いながらぷりぷり怒った満美ちゃんは折り紙を一枚差し出してくれた。

 私はそれを見ながら、気まずく顔を歪めた。


「……千羽鶴、もらう専門で折ったことない」

「だぁー、もう! もう! 教えるから! 見てて!」


 こうして、私たち従兄弟同士で、一生懸命鶴の折り方教室をはじめることとした。

 ホールでどうして折り紙折ったり色紙を書いたりするんだろうと思ったけれど、なんとなく理解した。手を動かしている間は、感情の動きを止められる。それはきっと、とても大切なことなんだ。


****


 しばらくしたら、お通夜の準備が整い、お棺が控え室に運ばれてきた。

 久し振りに会った姉は、気のせいかひと回り小さくなってしまっていた。それでも、姉は綺麗に化粧をしてもらったようで、私の記憶よりも顔色が明るく見える。

 ようやく到着した祖父母たちは、皆揃って号泣して、初孫を見下ろしていた。


「ゆきちゃん……まだはたちにもなってないのに」

「ゆきちゃん……別嬪さんに化粧してもらってなあ……」


 祖父母が泣きながら姉の手を握るのを、従兄弟たちはしらけきった顔で見ていた。どれだけ綺麗事を言っても、贔屓されていた、放っておかれたという感情は、そう簡単に抜けることはない。

 私は気まずい思いをしながら、姉のお棺に少女マンガを並べはじめた。


「お姉ちゃん、この作家さんのマンガ好きだったね。この人新しく連載はじまったけど、お姉ちゃんが死ぬまでに完結できなかったの」


 そう言いながら部活マンガを姉の顔の近くに並べる。


「この作家さんは、腕の故障でマンガが書けなくなっちゃったの。ごめんね。もしそうじゃなかったら、この人の未完成のマンガも持ってきてたかもしれないのに」


 そう言いながら、同居ものマンガを姉の足下に並べる。姉が好きな少女マンガは、恋と一緒に青春をするものが主流だった。ドキドキしても、誰かが大きな不幸に揉まれることはない。どこまでも澄み切った青春マンガに焦がれていた。

 私が語りながら少女マンガを入れ、最期に折り紙で隙間を埋めていく。

 係員さんは「それでは、一旦蓋を閉じます。どうぞお通夜の席にどうぞ」と呼んでくれたので、私たちはそれに沿ってホールに入っていった。

 どこでどう連絡を入れたのか、親族以外にポツンポツンと人がいるのが見えた。

 姉の人間関係はひたすら乏しく、ここにいる人たちはいったい誰か私にはわからなかった。ただ私たちは親族だからと、一番前のパイプ椅子に座らされ、お坊さんの念仏を聞きながら、運ばれてきたお棺を眺めていた。

 花輪は親族の名前以外に、どこかの病院やどこかの議員の名前もあった。最後に線香だけ皆で備え、線香を上げたら来ていた人たちは一斉に解散していった。

 ホールの係員には「ここで線香をひと晩あげ続けてください」と説明を受け、お母さんがそれに立候補したものの、どう考えても休んだほうがいいため、叔父さんにほぼ「いいから寝なさい」と運ばれていってしまった。

 本当は徹くんも控え室に泊まりたがったけれど、叔母さんに「あなたは受験生! 一旦家帰りなさい! 満美も連れて行って!」と横暴なことを言われて、渋々帰ることとなった。


「じゃあ、蛍ちゃん……本当に大丈夫か?」

「私は平気だから。お休みなさい」

「うん……お休み」


 私は一旦シャワーを借りると、そのまま寝間着に着替え、叔父さんが線香の晩をしている隣に行く。叔父さんはちらりと私を見た。


「ほたちゃん、君も学校終わったばかりだろ。お母さんたちと寝たらどうだ?」

「そうなんですけど……お母さんとお父さんは、ちゃんと病院でお別れできたみたいですけれど、私は全然できなくって……明日になったら、お姉ちゃん焼かれてしまうから、それまで離れがたくて」

「そうか……」


 叔父さんは複雑そうな顔をしていた。

 しょっちゅう預けられる私を見ていたのだから、うちが機能不全家族だというのは知っているものの、叔母さん同様、どうやって介入したものかと手をこまねいていたのは知っていた。いちいち我が家は各方面に心配かけ通しだった。

 叔父さんは一旦席を立つと「ちょっとお風呂借りてくるから。ほたちゃんもゆきちゃんとお別れしたら、適当に寝なさい」と言い残して、一旦控え室に帰って行った。

 私はお棺の蓋を開け、姉の顔を眺めていた。

 姉は自分がいろんな人を犠牲にしないと生きていけないということを、よく自覚している人だった。私たち家族がどれだけ悲しんでいても、周りはそれに引き摺り回されているため、しらけきってしまう。それがわかってしまうからこそ、上手く感情を表に現せなかった。

 私は姉に、ポツンポツンと声を上げた。


「……お姉ちゃん。前にリップクリームくれた人ね、優しい人なんだよ」


 榎本くんのことを、姉に教えるのを忘れていた。


「……優しいって言っちゃってもいいのかな。悲しかったり寂しかったりするのを、顔に出すのを嫌がる人……かなあ。私とおんなじだ。家が結構大変だから、日常生活を送る暇がなくって、普通から脱落してしまった人。日本ではよくいる人かもしれないけれど、それでも初めて私の前に現れた、似たような人だったんだ」


 榎本くんは、私に似たもの同士と思われていることを、嫌じゃなかっただろうか。

 私はなおも続ける。


「……本当は、お姉ちゃんが死んだこと、真っ先に伝えたかったんだ。他の子は、家族がいなくなってもそんなに悲しまないと思う。でも彼は、彼だけは、悼んでくれると思うから。お姉ちゃんに紹介したかったなあ……でも、お姉ちゃんは紹介されても喜ぶのかな」


 恋に恋する人ではあったけれど、姉は実物の恋を見せたとき、どんな反応をするのかが全く想像が付かなかった。

 ただ私は、姉に安心して欲しかったんだ。

 姉は私からいろんなものを取り上げた罪悪感を抱えて一生を終えたなんて、思いたくなかったから。

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