余命ヒロインの妹「だった」

第1話

 夏休みがはじまる直前の大掃除の日。

 蝉がけたたましくうるさい中、裏庭の雑草むしりをしていた。なんでも、流行病対策で雨水が溜まりそうな場所は一斉に綺麗にして、雑草は燃やすらしい。最近はどこもかしこも焚き火は禁止と言われているものの、ボーフラ対策と流行病対策のほうが上らしい。大人の基準はよくわからない。

 やる気のない子たちは、体操服で日陰で座ってだべっているものの、日陰は満員御礼で、私は一生懸命雑草むしりをしていた。幸いなことに、先生は昔ながらの人ではなく、ペットボトル持参はOKだったから、雑草をある程度むしってはお茶を飲み、七月半ばの眩しい太陽に目を細めていた。

 期末テストが終わってから、榎本くんが学校に来ていない。

 私は私で、姉のことで叔母さん家に居候状態だったけれど、彼は彼で大変なんだろうかと、想像することしかできなかった。私たちは互いにスマホアプリのID交換すらしてはいない。

 やがてチャイムが鳴り、日陰にいた子たちもぞろぞろと引き上げはじめた。私も雑草を集めて、捨てに行こうとしたところ、職員室にいた担任がこちらに走ってきた。


「東上、大丈夫か?」

「はい? お茶は飲んでたので、別に熱中症には……」

「すぐに着替えて家に帰りなさい。親御さんから、戻ってくるようにと」


 それに私は喉を詰まらせた。

 わかっていたはずだった。毎日のように死臭を漂わせていたのだから、もうそんな空気が当たり前だと思っていた。でも、結局のところ私は実感していなかったのだ。

 あれだけ虚弱だ病弱だと言われていたものの、蝶よ花よと育てられた姉だって、いつかは死ぬのだと。

 私は雑草を集めた袋に視線を移したら、すぐ担任が「君らー! ちょっとこれ持って行きなさい! 東上は家の都合で帰らないと駄目だから!」とすぐクラスメイトたちに声をかけた。日焼けが嫌な彼女たちは、一瞬嫌そうな顔をしたものの、私が急いで更衣室に走って行くのを黙って眺めてから袋を持って行ってくれた。

 私は耳元で聞こえる心臓の音に恐怖しながら、急いで制服に袖を通し、教室に鞄を取りに行ったら走っていた。

 無性に榎本くんの声が聞きたかった。彼の淡々としたマイペースな声が聞きたかった。でも、今はいない。

 だから私ひとりで、心臓の音が鳴り止まないのを聞かなければならなかった。

 蝉時雨すら、私の音を掻き消すことは、できないのだから。


****


 私が久々に家に到着したとき、お母さんはグズグズになっていた。それを叔母さんが「しっかりしなさい」と叱咤していた。


「ただいま……」

「ああ、蛍ちゃんお帰りなさい。今打ち合わせが終わったところだから」

「打ち合わせ……」

「……葬儀場、少し埋まっててね。葬儀できるのは三日後になるんですって。終業式には出られると思うけど」

「……お姉ちゃんは?」

「葬儀場で預かってもらってるの。大丈夫。ちゃんと眠らせてもらっているから」


 お母さんは、元々姉に対して非常に甘い人だった。あれだけアクティブに姉の治療に当たり、我が家に過度な程の健康志向を振りかざした人だったけれど、ここまで小さく見えるくらいに打ちひしがれて、座り込んで泣いている姿は初めて見た。

 どうも冷静な叔母さんが葬儀の手配や打ち合わせを行ってくれたらしい。まだお父さんもおばあちゃんたちもここにはいない。

 私は小さく手を挙げた。


「あのう……私はどうしたらいい?」

「蛍ちゃんはしばらく叔母さん家にいなさい。いろいろ忙しくなるから。まだ学校もあるし。ねっ?」


 私は背中を丸めているお母さんを見つめた。この数日、ちっとも会えていなかったけれど。ちゃんとご飯を食べられているんだろうか。


「お母さん」

「……なに?」


 お母さんは全然声が出ていない。泣き疲れているんだから、少しでもいいから休めばいいと思うけれど、未だに休めないんだろうか。

 お葬式の段取りは、私にもよくわからないけれど。溜息をついてから、もう一度尋ねた。


「お母さん、ご飯食べられてる? 栄養摂ってる?」

「……ごめんなさいね、食事用意できなくって」

「私は叔母さん家に預けられてるからいいけど。お母さんなんか食べる?」


 叔母さんはなにか言いたげな顔をして、私を黙って見ていた。お母さんは少しだけテーブルから顔を上げた。眠れなかったんだろうか、目は可哀想になるほど落ちくぼんで、頬が削げてしまっていた。久々に顔を合わせたお母さんが、心労で一気に老け込んでしまっている。

 私は叔母さんに言った。


「……叔母さんごめんなさい。私ここに残ります」

「でも、蛍ちゃん。あなた学校が……」

「慣れてますから」

「……そういうの、絶対によくないと叔母さん思うの」


 叔母さんは正しいし、優しい。叔母さん家だって家庭や日常があるのに、ずっと変な状態でいる私のことをずっと気にかけてくれて、なにかの拍子に家に連れ帰ってくれる。

 でも。叔母さんはお母さんについて、いろいろ思うところがあるらしくって、怒っているのは肌で感じている。

 間違っているかもしれない。正しくはないのかもしれない。それでも。


「叔母さん。心配してくださりありがとうございます。ただ、今のお母さんを置いてはいけません。食事は私が用意しますから」

「おねえさん……っ!!」


 とうとう叔母さんは、耐えきれないというように声を荒げた。


「雪奈ちゃんが亡くなって、悲しいのはわかります! ただ……ただ蛍ちゃんだって、まだ十代なんです! この子にどれだけ負担をかける気ですか!? 我慢は全然美徳じゃありません! 子供にメンタルケアさせるなんて論外です……!!」

「叔母さん、叔母さん、やめて……そんなんじゃ、本当にそんなんじゃ……」

「でも……!」


 叔母さんが歯噛みしている中、私は必死に懇願して彼女をお母さんから庇った。お母さんはやつれた頬で、茫然と眺めている。


「……私、お母さんもお父さんも……好きです……私が一番ではないかもしれないけど……間違ってるとは思ってるけど……好きです……それでもかまわないって、思ってるから……だから、本当に心配しないで。お願いだから」


 私が必死に懇願するように言って、やっと叔母さんは引きつらせていた顔を元に戻した。


「おねえさん、蛍ちゃんもまだ十代ですから。十代って、本当に全然替えの利かない時期ですから。それだけは絶対に忘れないでください……雪奈ちゃんの葬儀のことについては、また詰めてお話ししましょう」

「……ありがとう」


 お母さんがカスッカスになった声でお礼を言ってから、叔母さんを見送った。

 私は本当に久々に家の冷蔵庫を開けて、絶句した。

 物がない。この季節だから腐っているよりはマシだとは思うけれど、大掃除の直前の冷蔵庫みたいに、中身がなにもないのは初めて見た。

 そうか……お母さんたちはずっと病院に詰めていたせいで、冷蔵庫に物を買い足す余裕もなかったんだろう。私はスマホでアプリをつける。


「お母さん。デリバリーは食べられる? なにか食べたいものはある? お寿司とか、お蕎麦とか、ピザとか……」

「……ごめんね」

「ごめんとかじゃなくってさあ……お姉ちゃんの葬儀になったら、忙しくってお弁当出るまでなんにも食べられないでしょう? 今のうちに栄養摂っておこうよ」

「……じゃあ、ピザがいい」

「うん。ピザはチーズいっぱいのとか、トマトソースのとか……オーソドックスなのはマルゲリータとかだけど、どうする?」

「じゃあ、ハムの載ってる奴」

「じゃあミートミートミートで」


 思えば、お母さんと姉のことを全く間に挟まないでしゃべるのは久々だった。

 大概は姉について頼まれるか、私のやらかしを怒られるかだったから、こんな風に普通に頼られるのは久々だった。

 うちの家は、いろいろと歪んでしまっている。

 だから叔母さんみたいに耐えきれなくなって叫んだり怒鳴ったりするのが普通で、そのために私を連れて帰ろうとするのは当然なんだろう。でも。

 歪んでしまった原因である姉を、本気で責められるんだろうか。少し前の私だったら、間違いなく責めていた。もう嫌だ。普通から離れるのは嫌だ。姉のせいだ。もう嫌だと。

 でも。私は榎本くんに会った。彼だってただただ普通の人なのに、突然普通から外れてしまい、途方に暮れながらも介護を続けている人だ。

 彼だけは、私を可哀想と扱わないでくれた。彼だけは、家族のようにずぶずぶに頼ることをしなかった。私がまるで、普通になれたかのように接してくれた人だった。実のところ、私は相変わらず普通がわからないし、普通の感性ってどんなものかは、もう思い出せないんだけれど。

 彼と一緒に美術室で、臭い油絵の具の匂いを嗅ぎながら食べるしみったれたお弁当の時間が好きだった。私はこの時間に恋をした。

 普通じゃない私たちが、普通の人と同じように、なんの実にもならない会話をする、あの時間が。

 私が注文して、しばらくしたらハムとソーセージを馬鹿みたいに載せたピザと、ペットボトルのコーラが届いた。

 私とお母さんは箱を広げると、熱々のピザを黙々と食べた。手がベトベトになり、お手拭きでずっと手を拭きながらピザを食べ、ときどきコーラを傾ける。

 久々の親子の団らんは、チーズの匂いと無言で終わってしまった。

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