第4話

 期末試験は当然ながらボロボロだった。さすがに見かねた担任に、空調の効いた部屋に呼び出しを受ける。

 公立は予算がカツカツなのか、職員用の部屋と図書室くらいしか空調が付いておらず、残りは全員「死にそう」と思いながら窓を全開にして過ごしている。

 私はぼんやりとした顔で、窓の向こうの蝉の声を聞いていた。


「大丈夫か、東上。成績。ご家族大変だって聞いたけど」

「……知ってたんですか」


 この担任がいい人か悪い人かは未だに知らず、私がキョトンとして尋ねると、団扇を仰いだ。


「一応はな。家族のお見舞いに毎週毎週通っていたのを見ていたからなあ……だがなあ」


 担任は言葉を探して天井を見る。

 この暑い中でも、グラウンドではどこかの運動部の声が響いていた。もうすぐ夏の大会があるらしい。彼らの青春を送る場所は、多分ここじゃないから頑張って欲しい。うちのクラスの子たちの通う部活すら知らない私は、そんな無責任なことを思った。

 担任はやっと口を開いた。


「一応周りにはフォロー入れてはおくが、家族のことが原因で成績不振だっていうのは、周りに知られたらいろいろ不利になるぞ。高校生の東上に言うのは酷かもしれないが」

「……そう、なんでしょうか」

「人の命ってそういうもんじゃないとは先生も思うがなあ。そういう人、多いから。落ち込むのを隠す練習だけは、しておいたほうがいいぞ」

「……ありがとうございます」


 担任はおそらくいい人なんだろうなと思った。

 叔母さん家に行けば、びっくりするくらい腫れ物に触れるような扱いをされるし、普通に「可哀想」と言われてしまうけれど。でも担任は私に憐憫を向けず、生き方を教えてくれた。

 余計なお世話だと、サリサリと胸中を削られることがなかったのに、私は少しだけほっとした。


****


 蝉の鳴き声がアスファルトをグワングワンと地鳴りさせるような勢いで響いている。蝉の命は地面の中で七年間、樹に登って七日間で死ぬ。

 パタパタと落ちている蝉の亡骸を、虫取り網を持った子供たちが一生懸命集めているのが目に留まり、そっと私は目を伏せた。

 叔母さんの家に帰ると、「お帰り」と叔母さんは麦茶を出してくれた。


「おねえさんが、もうすぐゆきちゃんの峠に入るって」

「……そう、なんですね」

「元気出してね。まだ若いんだから」


 担任が触れなかった部分に、叔母さんは難なく入り込んできて、サクリと刺してくる。やめてよ。痛いよ。苦しいよ。やめてよ。

 ただ麦茶を飲んでいるだけなのに、息ができないくらいに苦しくなって、コップから口を離した。


「……着替えてきます」

「行ってらっしゃい」


 叔母さんが相変わらず温かくて優しいのに、後ろめたさと申し訳なさと居心地の悪さを感じながら、借りた部屋へとのそのそと入っていった。

 私服だとほとんどスカートは持っておらず、量販店で買ったペラッペラの薄いシャツに、中学時代の体育のハーフパンツを穿く。私が着替え終わったところで「ほたちゃんほたちゃん」と扉が叩かれた。

 満美ちゃんだ。


「はい、着替え終わったけど、なに?」

「ゆきちゃん、やっと死ぬの?」


 それを言うんだ。私は返答に困り果てた。

 貸してもらった部屋は、本来だったら物置だったらしく、私の宿題用の折りたたみ式のテーブルと布団、私の着替え以外なにもない。中途半端な位置に存在しているせいで、窓すらないけれど、気を遣ってか扇風機はあるし、他の部屋の空調が回ってくるよう工夫はしてあるから暑くはない。

 その中、満美ちゃんは私の隣にドシンと座った。

 私は満美ちゃんを見下ろした。


「満美ちゃんはお姉ちゃんが嫌いなの?」

「嫌い。大っ嫌い」


 そうはっきりと言われてしまった。

 この子の言葉が刺々しいのは今にはじまったことじゃないけれど、会ったこともないうちのお姉ちゃんをここまで嫌っているのは、実は私も今初めて知った。

 満美ちゃんは膝を抱える。


「だってゆきちゃん、あたしたちよりもずっとお年玉もらってるんだよ。おばあちゃんたち、ゆきちゃんにお金いっぱい出してカツカツだからって、お年玉ほとんどもらったことないもん。お母さんにそれを言ったら『我慢しなさい』って。なんで? だってゆきちゃん死ぬじゃん。意味ないじゃん」


 身勝手だなあ。そう思うものの、どうしても満美ちゃんのチクチクとした言葉を否定できなかった。

 だって彼女は、私がなんとか言わないように、思わないようにしていた言葉を、全部口にしているから。

 私はもうお姉ちゃんに会えないかもしれないのに、こんな汚泥みたいな言葉をぶつけてしまったのかと、彼女のがなり気味の言葉を聞きながら、ひとり愕然とする。


「満美ちゃんはねえ、幸せだから多分、わからないと思う」

「……なにが?」


 満美ちゃんはむっとした顔で私のほうを見た。

 実際に満美ちゃんは、量販店の一年持てばいいほうな服ばかり着ている私よりも、よっぽどいい服を着ている。

 有名通販サイトの分厚過ぎずペラペラし過ぎずのちょうどいいボーダーラインのTシャツ。穿いているデニムも有名ジーンズメーカーのものだ。叔母さんは姪の私だけでなく、満美ちゃんを大切に育てているはずだ。

 私は膝を抱えて言う。


「お姉ちゃんねえ、世間知らずなんだよ」

「はあ?」

「友達と遊べない。そもそも教室にほとんど入ったことがないから、クラスメイトたちから顔も覚えられてない。一番しゃべっていたのは保険医さんだっていう体たらくだったから、普通の生活にずっと憧れていた。それでもいつ死ぬかわからないから、最近流行りのマンガは勧められなくって、私がお見舞いで持っていくのは、だいたい三巻四巻で完結の少女マンガばかりだった。そうなったら、どうしても常識が古臭くなってしまう。お姉ちゃんは普通の日常をずっと欲していたから、マンガで読むしかなかったんだよ」


 私の言葉を、満美ちゃんは黙って聞いていた。

 姉は会いに行くたびに、どんどん腕に繋がれていくものが増えていった。


「お姉ちゃん、手術受けたり治療受けたり、転院をずっと繰り返して、お見舞いに行くたびに身が削れていったんだよ。わかる? どんどん腕が細くなっていくし、どんどんお腹の傷が増えていくの。着替えを取りに来たのに、お姉ちゃんはなかなか着替え終わらなくって、いつも苦労してた」


 姉は私の話を聞きたがった。私がくだらないと思っていることでも興味を持って知りたがるし、私がオレンジのリップクリームを付けてきたときには真っ先に気付いてはしゃいでいた。

 そこで思い知らされてしまったんだ。姉は私よりも不自由なのに、私よりもずっと感受性が豊かなままここまで来たんだって。

 私には、姉の妹だってアイデンティティ以外、なにもないのに。

 だんだん鼻の奥がツンとして、息苦しくなってくる。涙腺が決壊し、ボロボロと涙が零れる。


「……私、お姉ちゃんになんにもできなかった。なんにもできなかった。なのに、お姉ちゃん」

「……ほたちゃん。あたしてっきりほたちゃんはゆきちゃんのこと、嫌いなんだって思ってた」


 いつの間にやら満美ちゃんは、足を崩してあぐらをかきながら私を見ていた。彼女は肘を突きながら言う。


「あんなに自分は不幸だっていうのを、前面に出していたのに。えらいねえ」

「……えらいって、なにが」

「だってさあ。ほたちゃん、傍から見てても変だったもん。搾取されているし、ずっと時間とかお金とか親の関心とかおばあちゃんたちからのお小遣いとか、全部ゆきちゃんに持って行かれても、それでもゆきちゃんが好きって」

「……嫌いになれたら、よかったのに」

「ええ?」

「お姉ちゃんは私のものなんでもかんでももってっちゃうから、そりゃ最初は嫌だったよ。なんでこの人と私が姉妹なんだろうって。でもしょうがないじゃない。私はお姉ちゃんの妹になっちゃったんだから」


 私はボロボロ泣いていたところで、扉がまたしてもコンコンと叩かれた。


「はい、どうぞ」

「ここの部屋。窓も空調もないから、リビングに来たほうが……って、こらみつ。また蛍ちゃんに……!」


 呼びに来てくれたのは、受験勉強まっただ中の徹くんだった。徹くんは私が泣いているのを見て、うろたえて満美ちゃんを叱るのに、私が手を振る。


「リビングに行くから……あと満美ちゃんは別に私を泣かせた訳じゃ」

「こいつ本当にしょうもないつっかかりばっかりするから。あんまり優しくしなくっても」

「そんなんじゃないしっ、だってゆきちゃん死んだらほたちゃんも清々するかなと思ったけど、逆に泣いちゃったから」

「こら、みつ!?」


 徹くんは必死に私に謝り、私は「勉強の邪魔になるから、散歩に行くね」と言ったら、徹くんは慌てて「今は休憩中だから!」とついてきた。

 蝉の鳴き声に、蝉の抜け殻。あと派手な蝶が飛んでいて、夏を思う。

 八月に入ってないせいか、まだ吹き抜ける風は熱を含んでいなくて心地いい。八月になったらもっと情け容赦のない大気になってしまうだろう。

 私は何度も何度も叔母さん家に足を運んでいたから、この辺りの土地勘はだいぶ働いていたものの、心配性の徹くんは私についてくる。


「あそこのコンビニ。アイス棚増やしたからお勧め」

「へえ……」

「……本当にごめんな。満美が変なこと言って」

「いいよ。別に。私がお姉ちゃんに最期に会いに言った際に、ぶつけちゃったから……お姉ちゃん、傷付いてないといいけど。起きないからわからない」

「そっか……いろいろあったけど、蛍ちゃんはずっと雪奈ちゃん好きだったしな」

「……人に言われなかったら、全然気付かなかったけどね」

「あれ、そうなの?」


 徹くんは意外そうな顔をしたので、私は頷いた。

 思えば私が誰にもなにも言えないままだったら、きっと満美ちゃんの暴言に頬のひとつでも打っていたのに、そんな気には全くならなかった。


「私、ずっとひとりだと思っていたから」

「そんなこと……」

「徹くんたちは優しいけどね……」


 まさか、面と向かって「優しくされ過ぎて見下されている気がしてつらい」なんて言えなかった。私はなんとか言葉を選び直す。


「私と同じような人に会えたから。自分を卑下したくないんだよ」

「……同じような人って」

「同じような人。ちょっと苦労してて、普通から外れちゃった人」

「……その人、大丈夫なんだよな?」

「大丈夫だよ。クラスメイトで、一緒にご飯食べてる人だから」


 それに徹くんは目を白黒とさせた。

 私はポケットに忍ばせているリップクリームに触れた。あまり体温で温め過ぎると溶けてしまうけれど、私のお守りにはちょうどよかった。


「だから、あんまり心配しないで」

「……そっかあ。先を越されたか」


 意味がわからないまま、私は首を傾げた。

 蝉が大合唱している。風が滑らかに吹き抜けていった。

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