第3話

 私は何度も何度も榎本くんにお礼を言ってから、うちのマンションに帰っていった。

 家に帰ると、私服に着替えてから、何度も何度もリップクリームを見る。


「……ふふ」


 唇になにげなく塗ってから、手鏡で覗き込んでみると、顔全体が明るくなったように見える。それが嬉しくて、私は何度も何度も転げ回った。

 食事の用意をするまで、少しだけ時間がある。私はスマホでタイマーを付けると、少しだけベッドに横たわった。

 窓の外の雨音を耳に、少しだけまどろんだ。


****


 少しうとうとしていると、突然スマホのメッセージアプリが鳴った。

 お母さんからだった。


【お姉ちゃんの病院にいます。ちょっと危ないので、しばらく様子見しています。】

【しばらく帰ってこられません。食事は冷蔵庫の中のものを食べててください。】


 それに私はびっくりして、ベッドから落ちた。

 この間、姉と会ったときは元気だったはずなのに。でも。姉はあれだけ大好きな少女マンガを読み切れていなかった。巻数は少なめな完結しているマンガを持って行っているけれど、会いに行くたびに全部読み終わっていたのに。

 ベッドから落ち、思いっきり絨毯に腰を打ち付ける。


「……痛い」


 腰をさすりながらもなんとか起きて、メッセージの返信をする。


【わかった。他にしておくことある?】


 返事はなかった……そりゃそうか。病院内だと、スマホを使っていいところと悪いところがぱっくりと割れているから、緊急処置室辺りだったら使っていたら睨まれる。

 返事もないまま、私は溜息をついてのそりと部屋から出ると、冷蔵庫の中を見た。昨日つくったカレーがまだ残っている。梅雨の時期は定期的に火を通さないと傷んでしまうから、早めに食べたほうがいい。

 私は冷蔵庫のカレーを鍋に移し替えて温めはじめた。

 姉が季節の変わり目に体調を崩すのはいつものことなのに、なぜだか胸騒ぎは止まらなかった。


「……お姉ちゃん」


 あの人は私の普通を全部奪った人なのに。あの人は私よりもよっぽど家族に大事にされているのに。今の娘とは思えないような扱いをしている元凶の人なのに、それでも私は姉のことを嫌いになれなかった。

 窓の雨音は私が昼寝していたときよりも早く激しくなっていた。カレーの匂いは香ばしくまろやかなのに、ちっとも心引かれず、私はお父さんが帰ってくるまで、ただ溜息だけを付いていた。


****


「ただいま」


 相変わらずくったりとしたお父さんは、このところ髪の毛が白くなってしまっていた。抜けるよりはマシなんだろうけれど、年齢よりも老け込んで見える。


「お帰りなさい……お母さんの連絡見た?」

「まだ見てないよ……ゆきかい?」

「うん」


 私がカレーを出してあげると、お父さんは席に座った。


「……ゆき、もう長くないかもしれないな」


 私はそれに答えられなかった。ただお父さんはくったりとしている。


「ほたになんもしてあげられなかったのにな」

「……そんなことないよ」

「ごめんなあ」

「お父さん、まだビールも飲んでないでしょ。ちょっと落ち着いてよ。どうする? ビール飲む?」

「今日はやめとく」


 私は第三のビールを出すのを止め、ただしょぼくれているお父さんを宥めていた。

 あれだけ昼間は弾んでいた気持ちが、みるみる萎んでいく。私は少女マンガのヒロインにはなれない。そんなのはお姉ちゃんの役割であり、私はよくてヒロインの妹だ。私にはそういう役は回ってこない。

 わかっていたはずなのに、わかっていなかった。思い上がっていた。

 お父さんは私が色つきリップクリームを使っていることも、今日初めて男の子と一緒に相合い傘をして帰ってきたことも気付いてない。その後ろめたさが歯がゆくて、結局私は洗面所に行って、ティッシュペーパーでゴシゴシとリップクリームを落としてしまった。

 折角色付いていた肌が、一気に色褪せてしまったかのように見えた。

 仕方がない。仕方がない。何度も諦めていた気持ちを思い返した。

 私はひどい妹だ。姉のことを、自分の不幸の元凶だと、思い込もうとしているのだから。


****


 お母さんが帰ってきたのは、翌々日。あれだけ降っていた雨が止んだ頃合いだった。

 よれよれになってしまっているお母さんに「食事いる?」と聞くと「味噌汁ある?」と聞かれた。

 ないからつくらないといけなくてはならず、私は慌てて小鍋に出汁パックを放り込んで水と一緒に調理器にかけはじめたとき。お母さんはよろよろしたまま席に着いた。


「お姉ちゃんね……夏を越えられないかもしれないから」

「……そう」

「蛍、もうすぐ夏休みでしょう? ひとりでいる? 叔母さん家行っとく?」


 本当だったら、家に残っていたかった。叔母さんの家は優しいけれど、私のことを憐れむから。でも夏場に放ったらかしはしょっちゅうで、お金を置き忘れた末に、私がお腹を空かせて家の冷凍庫にあったものをさらって食べることなんていくらでも思い返せた。冷房はあっても食事がなければ、酷暑は乗り越えられない。

 しばらく考えた末「……叔母さん家に行く」と言った。

 それにお母さんは「そう」と言ってから、宣言してきたのだ。


「蛍、あなた叔母さん家に行く際、制服持って行きなさい」

「……ど、どうして?」

「……葬儀の際に、いるかもしれないから」

「……お姉ちゃんのお見舞いって、まだ行けるの? もう行っちゃ駄目なの?」

「今のうちに会いに行きなさい。あの子、どんどん起きている時間が短くなっているから、まだ起きていられる内に」

「……うん」


 もうすぐ期末試験だというのに、私はもうそのことを頭の端へと追いやってしまっていた。


****


 榎本くんにもらったリップクリーム。どうしようと思ったけれど、結局私は、病院に行く前に軽く唇に塗ってみた。オレンジ色に色付いた唇が、この数日眠れなくてくすんでいる私の肌に彩りをくれた。

 病院に行ったとき、面会したい旨を伝えたら、少しだけ難色を示されてしまった。


「東上さんですが……今具合が悪いので」

「……カメラ越しでも駄目ですか?」


 最近は流行病対策で、具合が悪い人と面会する場合は、カメラ越しで会うことが勧められている。もっとも、それだけやってくれるのは個室くらいだ。合同部屋だとカメラを設置するのも管理するのも難しいからだ。

 それを伝えたら、「お待ちください」とだけ言われて、奥へ引っ込まれてしまった。駄目なんだろうか。最後になってしまうんだろうか。そう動揺していたものの、すぐに戻ってきてくれた。


「カメラでの面会室へご案内します。こちらへどうぞ」

「……っ、ありがとうございます」


 こうして、私は姉と面会することができた。

 これが最後じゃないかって、ずっと私は思っている。

 モニター越しに姉を見ると、姉は前よりも繋いでいるものが増えていた。会いに行ったらいつも腕に点滴を刺しているのを見たけれど、それ以外にもなんの機械かわからないものを何個も繋いでいるようだった。


「お姉ちゃん」

「ああ、蛍元気? あれ、口元……」


 本来、病院ではマスクが推奨されているものの、面会室で口元を見せたい場合のみ、マスクを外すことが認められていた。私のオレンジ色のリップクリームに姉は目を細めた。


「なに? 前から蛍の雰囲気が変わった原因?」

「……友達の買い物に付き合ったら、買ってくれたの。お姉ちゃんが喜ぶようなことは、ないよ」

「いや、あるよぉ。だって私、少女マンガみたいな展開が起こりようもなかったもの」


 姉はカラカラと笑う。前々から天使のような人で、ときおり私を羨ましそうに見ていたものの、必要以上に僻むことはなかった。

 姉はしみじみしたように口を開く。


「家と病院しか知らないし、学校にはほぼほぼ行けなかったしね。まともにしゃべったことのある男の人なんて、病院の先生か学校の先生。リハビリの指導員さんくらいだよ」

「……なんでお姉ちゃん、そんなこと言うの」

「だって私、蛍のお姉ちゃんだもん」


 姉はさも当たり前のように言った。そして、にっこりと笑う。

 この人は、もう死期を悟ってしまっているんだろうか。もっと死にたくないと慌てふためくことがなく、ただ凪いだ瞳をしていた。


「毎日のように、私はいつ死ぬ、明日死ぬ、今日死ぬって、そればっかり聞かされてきたの。私が知っている世界なんて本当に病室くらいだし、体は全然思うように動かせないし、もうどうしようもないなって思ったの。でも蛍は、そんな私にずっと少女マンガを買ってくれたでしょう?」

「……だって、お姉ちゃんが読みたいって」

「うん。だって他に私は外の世界を知りようがないもの。テレビはなんかよくわからないし、生々しくって気持ち悪い。少女マンガは、平面な分だけ生々しくないから好き……そんな世界だからこそ、私はそういう世界に素直に憧れることができた。だから蛍」

「……なに」

「好きな人ができてよかったねえ」


 そう言う姉に、とうとう私はボロッと涙を溢した。


「……なんでそんなこと言うの」

「言ったでしょう? 私は蛍のお姉ちゃんなのに、妹からなんでもかんでも取って、それを着せられて。私はあなたのお姉ちゃんなのに、なんにもできないの。せめて、妹の幸せを祈っちゃ駄目?」

「なんで私に替わってって言わないの。なんで私を妬まないの……なんで私を嫌いだって言ってくれないの。それじゃあ、私はお姉ちゃんを嫌いになれないじゃない……」

「少女マンガっていいよね。生々しくなくって。でも、想いだけは人間とおんなじ。私ね、蛍に忘れられたら寂しいもの。だから、できる限りいい姉になりたかったの。なんにもできないから、せめて気持ちの上だけでは」


 ……姉は本当に、患った頃からずっと、私に当たり散らすことも、誰かに八つ当たりすることもなかった。

 たくさんの手術をしたり、たくさんの転院をしたり、体がどんどん弱って思うように動かなくなったり、それでも。

 あの人を人間たらしめていたのは……私だったと初めて知った。

 姉は笑った。


「……だから、蛍は私の分まで、大事な人と生きてね」

「……なにも返せないのに、なんでそんなこと言うの。お姉ちゃん……私」


 姉は、最期まで私のいいお姉ちゃんだった。私は最低な妹だったのに。

 姉としゃべったのはここまで。そのあと姉がスコンとベッドに落ちてしまった。私が慌てて看護師さんたちに知らせたときからもう、姉の目が開くことはなかった。

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