第13章 信仰と科学の狭間で
修道院の静寂を破るように、重い扉の開く音が響いた。見知らぬ老人が、修道女に案内されて礼拝堂に入ってくる。そこには、祈りに没頭するエマの姿があった。
「シスター・エマ、失礼いたします。お客様がお見えです」
修道女が告げた。
エマは祈りの手を止め、振り返った。初老の紳士が、自分を見つめている。その目は鋭く、知性に満ちていた。
「こんばんは、シスター」
老人がおもむろに口を開いた。
「突然の訪問、失礼いたします。私は、この地を訪れた科学者のハインリッヒと申します」
「ハインリッヒ様、よくいらっしゃいました」
エマは微笑み、老人を礼拝堂の長椅子に案内した。
「どのようなご用件でしょうか?」
ハインリッヒは、しばらく言葉を探るように沈黙していたが、やがて切り出した。
「私は長年、科学一筋に生きてまいりました。しかし近年、ある疑問に悩まされているのです。神の存在について……科学では説明できない神秘について……」
エマは、ハインリッヒの言葉に心を奪われた。
天才科学者が、なぜ神の存在に悩むのだろうか。
言葉は悪いが興味をそそられた。
「ハインリッヒ様、あなたはこれまで神を信じてこられなかったのですね?」
エマは尋ねた。
「その通り。私は無神論者だったのだ。だが、科学の探求を深めれば深めるほど、この世界の成り立ちの偶然性に愕然とするようになってしまった」
ハインリッヒは続けた。
「ほんのわずかでも条件が違えば、この地球は……いや、この宇宙は存在し得なかった。そう考えると、神の存在を思わずにはいられなくなったのだ」
エマは瞑目し、深く考え込んだ。
科学と宗教の関係性。
それは、エマ自身も長年考えてきた命題だった。
「ハインリッヒ様、私は科学と宗教は対立するものではないと考えます」
エマは語り始めた。
「私たち人間に与えられた知性は、神からの贈り物。その知性を用いて自然の理(ことわり)を探求することは、神の意志に適うことだと信じています」
「だが、科学はいずれ神の存在を否定するやもしれぬ」
ハインリッヒは懸念を示した。 エマは首を横に振った。
「たとえ科学が発展しても、人知を超えた神秘は残り続けるでしょう。なぜなら、神は人知を超越した存在だからです。科学と宗教は、真理を探求する双子の兄弟のようなものかもしれません。互いに補完し合い、ときに切磋琢磨しながら、真理へ近づいていく……」
エマはそこで一呼吸おいた。ハインリッヒは瞠目している。
「科学は『なぜ』を問い、宗教は『誰が』『何のために』を問う。その両輪があって、人は生きる意味を見出していけるのだと、私は考えるのです」
ハインリッヒは、感嘆のため息をついた。
「シスター、あなたの言葉は長年の経験と思索に裏打ちされていることが伝わってくる。科学と宗教の調和……私は目指すべきはそれだったのだと、今になって悟りました」
エマは微笑み、ハインリッヒの手を取った。
「ハインリッヒ様、実は私、あなたの論文を何本も読ませていただいています。あなたのような知の巨人が、神を思い悩む姿勢こそ尊いのです。それこそが、神が人に与えた試練なのかもしれません。科学の道を究めつつ、神の存在も探求する。その先に、きっとあなたの人生の意味が見えてくるはずです」
エマは恭しく言葉を紡いだ。
ハインリッヒの目にわずかに涙が滲んだ。
「ありがとう、シスター・エマ。あなたに出会えて本当によかった。私は科学者として、また一人の人間として、新たな一歩を踏み出せる気がします」
老科学者は、エマに深く頭を下げた。
エマもまた、祈るように目を閉じた。
ふたりの出会いは、神の導きだったのかもしれない。
科学と宗教の狭間で、真理を探求する者たちへの、神の思し召しとして。
ハインリッヒが修道院を後にした後、エマは再び祈りに没頭した。
「神よ、お導きありがとうございます」
心の中でエマは呟いた。
「ハインリッヒ様との出会いを通して、私自身も新たな気づきを得ました」
「科学と宗教は対立するのではない。共に真理を探求する道なのだと。そのことを、あの方に伝えられたこと、それこそが私に与えられた使命だったのだと感じます」
エマの祈りは、夜の静寂の中で深く響き渡った。天才であるがゆえの孤独、神の意思、人生の意味。エマの魂は、この出会いを通して、また新たな学びを得たのだった。
人知の及ばない神の領域がある。だからこそ人は、謙虚に真理を探求し続けねばならない。
科学と宗教の調和を、自らの使命と定めたエマ。彼女はこれからも、孤独な魂と向き合い、導き続けるのだろう。
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