第8章: 放浪の旅路

 しかしエマの心はすでに限界を迎えていた。

 マリアを失った悲しみが心にあけた穴は、あまりにも深く昏かったからだ。

 それはエマ自身も気づかぬ内に彼女の心を静かに浸食していた。


 ある日、ある瞬間。

 エマの中で突然、すべてが反転した。


 祈りも、奉仕も、修行も、聖書の学びも、その瞬間すべてが忌むべきものとなった。

 エマはここに……この修道院に一分、一秒たりともいられない……そう感じた。

 深夜、エマはひっそりと修道院を抜け出した。

「もう、ここには戻らない……」

 エマは、独り言をつぶやきながら、修道院の門を潜った。

 マリアを失った悲しみ、そして神への疑念。

 エマの心は、荒れ狂う嵐のようだった。

(神よ、なぜマリアを奪ったのですか? 私には、もう修道院での生活は無意味に思えるのです、いえ、この人生全体が無意味です……!)

 エマは、神に問いかけながら、足を進めた。

 行き先は決まっていない。ただ、どこかに自分の居場所を求めて、彷徨うだけだった。


***


「おい、お嬢ちゃん。こんなところで何をしているんだい?」

 大都会の片隅で、一人の男が声をかけてきた。

「私は……」

 エマは、答えに窮した。

「まあいいや。こんな夜更けに、一人でいるなんて危ないぜ」

 男は、懐かしそうに笑った。

「あんたも、居場所がないのかい?」

 その言葉に、エマは驚いた。

「どうして、そんなことを?」

「あんたの目を見れば分かるさ。私も昔、同じ目をしていたからね」

 男は、自嘲気味に笑った。

「放浪の旅は、楽じゃないぜ。でも、自分を見つめ直すにはいい機会かもしれないな」

 男の言葉は、エマの心に染み入った。

(自分を見つめ直す……か)


***


「おい、お嬢ちゃん。今夜はここで寝ていくかい?」

 男が、段ボールハウスを指差した。

「ええ、お願いします」

 エマは、覚悟を決めた。

「そうか。じゃあ、隣で寝ることにしようか」

 男は、エマの隣に横たわった。

「あんた、誰かを失ったのかい?」

 唐突な男の問いかけに、エマは戸惑った。

「どうして……?」

「あんたの目は、悲しみに満ちているからさ。私も、大切な人を失ったことがあるんだ」

 男は、夜空を見上げた。

「辛いよな。でも、生きていかなきゃならない。大切な人も、それを望んでいるはずだ」

 男の言葉に、エマは涙があふれた。

(マリアさん……)


***


「ありがとうございました」

 朝日が昇る頃、エマは男に別れを告げた。

「どこに行くんだい?」

「私は、まだ答えを見つけられていません。でも、これからも歩き続けます」

 エマは、力強く言った。

「そうか。じゃあ、頑張りな。生きることは、時に孤独だ。でも、それは悪いことじゃない」

 男は、エマの背中を押した。

「孤独を抱えながらも、懸命に生きる。それが、人生ってもんさ」

 男の言葉を胸に、エマは再び旅立った。

(孤独か……。私は、孤独から逃げていたのかもしれない)

 エマは、自分の心と向き合い始めた。


***


「お腹、空いた……」

 公園のベンチに座り、エマはつぶやいた。

「お嬢ちゃん、これ、食べなよ」

 通りすがりの女性が、パンを差し出した。

「でも……」

「遠慮しないで。あなたは、辛い思いをしているんでしょう?」

 女性は、優しく微笑んだ。

「私も昔、家出をしたことがあるの。だから、あなたの気持ちが分かるんだ」

 女性は、エマの隣に座った。

「人生は、思うようにいかないことだらけ。でも、それでも生きていかなきゃならない」

 女性の言葉に、エマは頷いた。

(生きていく……。私には、まだそれができるのかしら?)


***


「あんた、まだ若いんだから、チャンスはいくらでもあるよ」

 街角で出会った老人が、エマに言った。エマはあてもなく放浪していた。

「チャンス……?」

「そうさ。あんたには、まだ可能性が無限にある。それを信じなよ」

 老人は、力強く言った。

「私も若い頃は、あんたみたいに迷っていた。でも、自分を信じることで、道は開けたんだ」

 老人の言葉に、エマは勇気をもらった気がした。

(自分を信じる……。私にも、できるかもしれない)

 エマの心に、希望の光が差し込み始めた。


***


「お嬢さん、どこか目的地はあるのかい?」

 バスの運転手が、エマに尋ねた。

「いいえ、特に決めていません」

「そうか。だったら、終点まで付き合うよ」

 運転手は、にこやかに言った。

「人生も同じだよな。目的地は決まっていない。ただ、終点まで付き合うだけさ」

 運転手の言葉に、エマは深く頷いた。

(人生に、決まった答えはないのかもしれない。ただ、歩み続けることが大切なのね)

 バスは、どこまでも走っていく。

 エマの心も、少しずつ前を向き始めていた。


***


「神様、私はどこに行けばいいのでしょう……」

 とある小さな教会の前で、エマは手を合わせた。

「神様は、あなたを見守っているのですよ」

 教会の花壇の後ろから、神父が現れた。

「神父様……私は、神様に背いたのかもしれません」

 エマは、俯いて言った。

「いいえ、違います。神様は、あなたの苦しみを理解しているのです」

 神父は、優しく微笑んだ。

「人は皆、苦しみを抱えている。でも、それを乗り越える力も、与えられているのです」

 神父の言葉に、エマは涙があふれた。

(神様、私を見捨てないでください。どうか、道を照らしてください)


***


 エマの放浪の旅は、続いた。

 都会の喧騒に身を置き、様々な人と出会った。

 孤独を抱える人、懸命に生きる人、自分を信じる人。

 エマは、彼らから多くのことを学んだ。

「ララ、エマとまったく連絡がつかなくなった……。修道院の方でも捜していただいてるるけど……心配だ」

 ギルバートが、溜息をついた。

「ええ、でも、エマを信じましょう。きっと、エマは自分の道を見つけ出すはずよ」

 ララは、夫の手を握った。

「そうだな。エマは、必ず戻ってくる。私たちにできるのは、祈ることだけだ」

 二人は、娘の無事を祈り続けた。


***


(マリアさん、あなたは私に、何を望みますか?)

 エマは、心の中でマリアに問いかけた。

 風が、エマの髪をなびかせる。

 まるで、マリアが答えてくれるかのように。

(そうか、私は生きていくのね。あなたが教えてくれた道を、歩んでいくのね)

 エマは、空を仰ぎ見た。

 雲の向こうに、マリアの微笑む顔が見えた気がした。

「神様、私はまだ答えを見つけられてはいません。でも、前を向いて生きていこうと思います」

 エマは、力強く呟いた。

「孤独と向き合い、自分の道を探し続けます。それが、私の使命なのだと信じます」

 エマの決意は、揺るぎないものだった。


***


 放浪の旅を続けるエマ。

 彼女の心は、少しずつ癒されていった。

 孤独は、もはや恐れるものではなかった。

 むしろ、自分と向き合うための試練だと、エマは感じていた。

「私は一人じゃない。神様が、いつも見守ってくださっている」

 エマは、そう信じることができるようになっていた。

「マリアさん、あなたとの思い出は、私の心の支えです」

 エマは、マリアへの想いを胸に刻んだ。

「私は必ず、あなたが望んだ道を歩んでいきます。そして、いつかまたあなたに会えることを信じています」

 エマの瞳は、希望に輝いていた。


***


 エマの放浪は、新たな一歩を踏み出すための、必要な旅だった。

 自分と向き合い、人生の意味を問い直すための、大切な時間だった。

 エマは、孤独と対峙することで、自分の心の強さを知った。

 そして、改めて神の愛を感じることができた。

「神様、私をこの旅に導いてくださり、ありがとうございます」

 エマは、心の中で神に感謝した。

「この経験を糧に、これからも精進していきます」

 エマの決意は、新たな高みに達していた。


***


「ララ、見て! エマからの手紙だよ!」

 ギルバートが、興奮気味に叫んだ。

「本当? どうなっているの?」

 ララが、急いで手紙を開く。

「ママ、パパ、心配かけてごめんなさい。私は今、自分の人生と向き合っています。戸惑うこともありますが、必ず答えを見つけ出すつもりです。本当に心配をかけてごめんなさい。でも、この旅は私に必要だったのだと感じています。いつか必ず、成長した姿を見せられるよう、頑張ります。エマより」

 ララの目から、涙がこぼれた。

「ララ、エマは大丈夫だ。我が子ながら、立派になったものだ」

 ギルバートも、感慨深げだった。

「ええ、エマなら大丈夫。私たちの娘は、必ず自分の道を見つけ出すわ」

 二人は、娘の成長を喜び合った。


***


 エマの放浪の旅は、まだ終わりを告げてはいない。

 しかしエマは、確かな手応えを感じていた。

 自分の心と向き合い、人生の意味を見出していく。

 マリアとの思い出を胸に、神の愛を信じて。

 エマの人生は、新たなスタートを切ったのだ。

 彼女はまだ、答えを見つけ出してはいない。

 だが、孤独と向き合う勇気を持つことができた。

 それは、エマの人生の財産になるはずだ。

「修道院に、戻ろう」

 エマは、希望に満ちた瞳で呟いた。

 彼女の旅は、まだまだ続くのだった。

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