第7章 神の愛の試練

「マリアさんが、すい臓がんの末期……?」

 エマは信じられない思いで、その言葉を繰り返した。

 目の前が真っ暗になるようだった。

「そんな、嘘だわ。マリアさんはいつだって元気で、優しくて……私の支えだったのに……」

 エマの声は震え、涙が頬を伝った。

 信仰の道を歩む上で、マリアの存在は欠かせないものだった。そんな大切な人が、もういなくなってしまうなんて。

「どうして……どうして今、私からマリアさんを奪うの……? 神様……」

 エマは泣き崩れ、声を上げて嗚咽した。神への信仰さえも揺らぎそうだった。

「エマ、お願い。私の話を聞いて」

 そんなエマに、マリアは優しく語りかけた。その声は弱々しくも、慈愛に満ちていた。「神様は、私たちを試しているのよ。この苦難も、きっと神様の御心なの」

「でも、マリアさん。どうして、こんなに辛い思いを……」

「エマ、人生において、喜びばかりではないわ。時には悲しみも、痛みも経験する。それもまた、神様が与えてくださった試練なのよ」

 マリアは微笑んだ。

 その微笑みは、死の影が迫る中でも、揺るぎないものだった。

「私は、神様から与えられたこの人生に感謝しているの。修道女として生きられたこと、あなたのような素晴らしい女性に出逢えたこと。すべては神様の御心なのよ」

「マリアさん……」

「エマ、私が逝った後も、あなたは前を向いて生きていってほしい。神様はきっと、あなたを導いてくださる。だって、あなたは特別な存在なのだから」

 マリアの言葉は、エマの心に深く沁みた。

 マリアは死を恐れていない。

 信仰を堅く貫いているのだ。

「私は、神様に自分の人生をすべて捧げてきました。この命も、神様から預かったものです。だから、神様が召されるのなら、喜んで差し出します」

「でも、マリアさんいなくなったら、私……」

「エマ、私はあなたの心の中で生き続けるわ。そして、天国であなたを見守っている。だから、悲しまないで。むしろ、私のために、喜んでほしいの」

 マリアは、エマの手を握った。

 その手は驚くほど温かく、生命力に満ちていた。

「約束してくださいね、エマ。私が逝った後も、前を向いて生きると。神様を信じ、自分の使命を全うすると」

「……はい、マリアさん。約束します。私、頑張ります」

 エマは涙を拭い、マリアを見つめた。悲しみは消えないが、それでも前を向いて生きていこうと思えた。マリアの教えを胸に、信仰の道を進んでいこうと。

 しかしエマの心の中では、今も葛藤があった。マリアを失う悲しみ、神への問いかけ。

 「どうしてマリアさんを召されるの……? 私には、まだマリアさんが必要なのに……」

 エマの内なる声は、神に対する強い反発心を隠せない。

 しかしその一方で、マリアの言葉が心に響いていた。

「神様は、私たちを試している。この悲しみも、受け止めなくては」

「そうだわ。私がマリアさんから教わったのは、神を信じる強さ。この悲しみに負けてはいけない」

「マリアさん、私、負けません。あなたが教えてくれた道を、私は進み続けます」

 エマは心の中で誓った。マリアの死を乗り越え、信仰を持って前を向いて生きると。それが、マリアへの恩返しだと信じて。

「マリアさんの分まで、私は生きる。二人分の人生を、神に捧げるのよ」

 エマの決意は固かった。悲しみは深いが、それでも前を向いて歩み続ける。それが、修道女としての、いや、一人の人間としての生き方だと信じて。


 マリアの死は、エマにとって大きな悲しみだった。最愛の師を失うという現実は、あまりにも重く、残酷に感じられた。

 だがその一方で、マリアが最期まで見せた強さと信仰心は、エマの心に深く刻まれた。死をも恐れず、神の御心に従うマリアの生き方。それこそが、真の信仰なのだと、エマは悟ったのだ。

「マリアさん、あなたが歩んだ道を、私も歩んでいきます。そして、いつか天国であなたに再会できる日を心待ちにしています」


 エマはマリアの冷たくなった手を握り、祈りを捧げた。マリアの魂の安らかならんことを、そして自分に力を与えてほしいことを、神に祈った。

「神様、どうかマリアさんの魂を受け入れてください。そして、私にも強さを与えてください。マリアさんの遺志を継いでいけるように」

 祈りの言葉は、夜の静寂に溶けていった。エマの決意もまた、揺るぎないものとなっていた。


 マリアの死は、エマにとって一つの転機となった。悲しみは深いが、同時に新たな決意も芽生えた。マリアが託した想いを胸に、エマは信仰の道を歩んでいく。

 それが、マリアへの恩返しであり、エマ自身の人生の意味でもあるのだから。


***


 マリアの葬儀は、エマの指揮のもと、厳かに行われた。

「マリアさん、安らかにお眠りください」

 エマは、マリアの棺に花を手向けた。

「シスター・エマ、これからはあなたが私たちを導いてください」

 修道女たちが、エマに頭を下げる。

「皆さん、力を合わせて、マリアさんの意思を継いでいきましょう」

 エマは、皆に呼びかけた。

「シスター・エマ、あなたについていきます」

 修道女たちは、口々に誓った。

(マリアさん、見ていてください。私、頑張ります)

 エマは、マリアへの思いを胸に刻んだ。


***


 だが、マリアを失った悲しみは、深く大きかった。

「マリアさん、苦しいです……」

 エマは、一人祈りを捧げていた。

「私にはまだ、他の人を導く力なんてないのに……」

 不安と悲しみが、エマを襲う。

「神様、なぜあなたはマリアさんを私から奪ったのですか? 私はなぜ、こんなにも試練を与えられ続けるのですか」

 エマは、神に問いかけた。

「マリアさんがいないと、私は……」

 エマは、祭壇に額をつけて泣いた。

(私には、信仰心が足りないのでしょうか)

 自問を繰り返すエマ。

 マリアの死は、エマの心に大きな傷を残した。


***


「シスター・エマ、最近お疲れのようですね」

 ある修道女が、エマを心配そうに見つめた。

「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」

 エマは、笑顔を作ろうとした。

「でも……」

「私は平気ですから。皆さんのことを考えなくては」

 エマは、修道女の言葉を遮った。

「シスター・エマ……」

 修道女は、複雑な表情を浮かべた。

(私は強くなくては。弱音を吐いている場合じゃない)

 エマは、心の中で自分を叱咤した。

 だが、心の傷は癒えることなく、エマを蝕んでいた。


***


「神様、私はこの試練に耐えられるのでしょうか」

 エマは、深夜に一人祈っていた。

「マリアさんがいなくなって、修道院は混乱しています。私には、皆を導く力がないのかもしれません」

 エマの心は、限界に近づいていた。

「マリアさん、あなたに教わったことを実践しようとしているのに、上手くいかないのです」

 エマは、涙を流した。

「マリアさん、私は、あなたのような立派な修道女にはなれないのかもしれません」

 自信を失いかけるエマ。

「神様、私に力をお与えください。マリアさんの遺志を、守る力を……」

 エマは、祈りを捧げ続けた。

 だが、神からの応答は、聞こえてこなかった。


***


「シスター・エマ、あなたは頑張りすぎているのではないですか?」

 修道院長が、エマを呼び出した。

「いいえ、私はまだまだ至らない点ばかりで……」

 エマは、俯いて答えた。

「エマ、無理をしてはいけません。あなたにも休息が必要です」

「でも、私がマリアさんの代わりを……」

「エマ、あなたはマリアの代わりになる必要はないのです」

 修道院長の言葉に、エマは顔を上げた。

「マリアはマリア、エマはエマ。あなたは、あなたらしく生きればいいのです」

「私らしく、ですか……」

「無理に背伸びをする必要はありません。ゆっくりと、あなたの道を歩んでいきなさい」

 修道院長は、優しく微笑んだ。

「……はい、ありがとうございます」

 エマは、涙を拭った。


***


(マリアさん、私は何を見失っていたのだろう)

 エマは、マリアの墓前で手を合わせていた。

(あなたを失った悲しみに、私は捕らわれすぎていたのかもしれません)

 マリアとの思い出が、走馬灯のように蘇る。

(あなたは、いつも「神の御心のままに」とおっしゃっていました)

 エマは、マリアの教えを思い出した。

(私は、神の御心に従うことを忘れていたのかもしれない)

 エマの心に、光が差し込んできた。

「マリアさん、私は感謝しています。あなたとの出会いを、あなたから学んだことを」

 エマは、マリアに語りかけた。

「これからは、あなたが教えてくれた道を、私なりに歩んでいこうと思います」

 エマは、新たな決意を胸に刻んだ。


***


「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」

 エマは、修道女たちを集めて話をすることにした。

「私は、皆さんにお詫びしなければなりません。マリアさんを失った悲しみに囚われ、修道院のことを疎かにしていました」

 エマは、頭を下げた。

「シスター・エマ……」

 修道女たちが、驚いた様子で見つめる。

「これからは、一緒に歩んでいきたいと思います。マリアさんの教えを胸に、互いに支え合いながら」

 エマは、皆の目を見つめた。

「シスター・エマ、私たちもあなたを支えます」

「そうです。一緒に頑張りましょう」

 修道女たちが、次々と声を上げた。

「皆さん、ありがとうございます」

 エマは、涙を浮かべて微笑んだ。

(マリアさん、私はまだ未熟ですが、前を向いて生きていこうと思います)

 エマは、心の中でマリアに誓った。


***


 マリアの死から、月日が流れた。

 エマは、修道女たちと力を合わせ、修道院を導いていった。

 時には失敗もあったが、皆で乗り越えていくことができた。

「シスター・エマ、あなたが私たちを導いてくれて感謝しています」

 ある日、修道女の一人がエマに言った。

「いいえ、私も皆さんに助けられています」

 エマは、穏やかに微笑んだ。

「マリアさんも、きっと喜んでいるはずです」

「ええ、そうですね。マリアさんに、感謝の祈りを捧げましょう」

 エマと修道女は、手を合わせた。

(マリアさん、私はあなたから学んだ愛を、皆に分け与えていこうと思います)

 エマの心は、新たな希望に満ちていた。


***


 マリアの死は、エマにとって大きな悲しみだった。

 最愛の師を失った喪失感は、言葉では表せないほどだった。

 エマは、深い絶望の淵に立たされた。

 だが、マリアの教えを思い出すことで、エマは再び光を見出した。

 神の御心に従うこと。

 エマ自身の道を、歩んでいくこと。

 修道女たちと共に、歩んでいくこと。

 マリアの死は、エマに新たな試練を与えた。

 しかしそれは同時に、エマを成長させる糧にもなった。

「神様、マリアさんを通して、私に多くのことを学ばせてくださり、ありがとうございます」

 エマは、心の中で神に感謝した。

「マリアさんの分まで、精一杯生きていこうと思います」

 エマは、空を仰ぎ見た。

(さようなら、マリアさん。そして、ありがとう)

 エマの心に、マリアへの感謝の気持ちが溢れていた。

 マリアとの別れは、悲しみに満ちていた。

 だがそれは、エマに新たな一歩を踏み出す勇気を与えた。

 エマの人生は、新たな章を迎えようとしていた。

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