第6話 こころのこりって・・・

 午前中、ボクは世谷おばあちゃんの病室にしのびこんだ。おばあちゃんのいる新棟はお年寄りが多い。ちょうど看護師さんたちが、患者さんたちのお世話をする時間で、病棟に消毒薬の匂いがただよっていた。

 「おばちゃん」

 ボクは小さな声で、おばあちゃんの耳元に声をかけた。おばあちゃんはまったく反応しない。寝ているのかな、それとも昨日の夜のことで、怒っているのかな。

 ボクはどうしても、昨日のことを謝りたかった。今日はそのために来たんだ。

 「おばあちゃん、昨日はごめんなさい。

 おばあちゃんに早く死んでほしいなんて思ってません。ごめんなさい」

 それだけいうと、自分の病室にもどった。

 その日の夕方、ボクはあと数日で退院できると、お医者さんが教えてくれた。ボクは母親に電話でそのことを伝えた。現実にもどれるはればれとしたような、少し残念なような、複雑な気持ちがした。



 その夜もボクはおばあちゃんのところに行った。てっきり男も来ていると思ったけどいなかった。

 薄暗い病室に、寝息と医療機器の音だけが響いていた。

 「おばあちゃん」

 ボクは小さな声で呼びかけた。今晩は男がいないから、おしゃべりするのは無理かもしれない。けれど、世谷おばあちゃんは静かに目を開けた。目をしょぼしょぼさせて、ボクのほうを目だけで見る。

 「おばあちゃん、昨日はごめんなさい」

 「……今日、お昼頃にも来てたでしょう?」

 「起きていたの?」

 「耳だけは聞こえたよ。目がなかなか開けられなくてね」

 「今日、あのおじさん……来た?」

 「さっき来たけど、すぐに携帯電話で呼び出されていったよ。もしかしたら、わたしがなかなか死なないから、お怒りの呼び出しかもね」

 おばあちゃんはそういうと、目を細めてにやりと笑う。少いたずらっ子のようなようすに、ボクは思わず笑ってしまった。

 「おじさん、成績の悪い営業マンみたいだよね」

 ボクがそういうと二人でけらけら笑った。

 実は今夜ボクがおばあちゃんのところに来たのは、ボクがずっと考えていたことを確認したかったからだ。ボクはずっとおばあちゃんが説得を受け入れないのが不思議だった。一年も死を受け入れないなんて、よほどの理由があるはずなんだ。

 武蔵塚さんはそんなに説得を拒否しているようすではなかった。男の話をこころよくは思わないだろうけど、それでも素直に受け入れていた。もしかしたら、安堵もあったかもしれない。

 でもおばあちゃんは一年も受け入れを拒否してきた。それはどうしてだろうと、ボクはずっと考えていた。

 「ねぇ、おばあちゃんがおじさんの話を一年間受け入れなかったのって、家族のため? おばあちゃんの家族のことを思って、死ぬのを先延ばしにしているの?」

 おばあちゃんが不思議な顔をして、ボクに顔を向ける。返事を待たずに話を続ける。

 「とつぜんおばあちゃんがいなくなって、家族が悲しくならないように、少しずつ、おばあちゃんの存在を薄くしていくようにしているの? ゆっくり自分たちだけの時間に慣れるように、おじさんに待ってもらっているの?」

 世谷おばあちゃんは目を丸くする。なにもいわないけど、すごく驚いているようだった。そして次にかかかっと声を上げて笑った。豪快な笑いかただった。

 「死ぬのが怖いんだよ」

 おばあちゃんはいった。

 ……ボクは言葉が出なかった。

 「死ぬのが怖いの」

 おばちゃんは同じことを繰り返しいう。

 死ぬのが怖い?

 「何歳になったって、死ぬのは怖いね」

 「……おばあちゃんくらい長く生きても? 死ぬのは怖いの?」

 おばあちゃんがこくりとうなずく。そんなことあるだろうか、もうすぐ百歳になるのに。

 「死にたくないねぇ……」

 おばあちゃんの声がこころに響く。ボクは顔を上げて、おばあちゃんを見つめた。

 「死んだら、どうなるんだろうね」

 おばあちゃんは天井を見上げて死んだ先を考えているようだった。ボクも死んだあとのことを想像してみたら、宇宙の果てを想像するくらい怖くなってきた。

 「小暮さんはいい人そうだし、駄々をこねているうちは死なずにすむと思ったんだよ」

 そういうとまたあのいたずらっ子の顔をする。

 「あんたは子どものくせにいろいろ考えるね。考えすぎるって、大人からいわれたことない?

 わたしなんか一人いなくなってもどうにかなるものだよ。わたしだって、旦那さん死んだときや、兄弟が死んでもどうにかやってきたし、誰かが欠けたあとの準備なんて必要ないよ。そうなってからでないと、実際わからないしね」

 おばあちゃんは天井に顔を向けると、深くて長い息を吐いた。今日はこれ以上話さないといっているサインだと受け取れた。

 ボクは座っていた丸イスを壁際に寄せると、一礼して自分の病室の戻った。


 その日の夕食時、お母さんがお見舞いに来た。

 「昇、入るよ」

 返事を待たずに、勢いよくカーテンが開かれる。そのときボクは最後に残しておいた、照り焼きハンバーグを食べるところだった。

 「ごめんね、ご飯の時間に。きょうのメニュー何?」

 お母さんはそういいながら、家で洗濯したタオルと下着をベッドの脇の棚に入れた。どのタオルも少しずつサイズが違うはずなのに、まるで同じ製品のようにぴったりと棚に収まっていく。タオルさえもお母さんにかかればお行儀よくなる。さすが中学校の先生だ。

 お母さんは週に二、三回、仕事帰りに着替えを持ってきてくれている。放課後の部活動は他の先生に頼んでいるようで、もしかしたらまたこの後、学校に戻って仕事をするのかもしれない。

 「洗い物は?」

 というと、棚の奥をのぞき込み、使用済みの下着とタオルを見つけ、大きなエコバックに入れた。

 「ちゃんと薬飲んで、看護師さんのいうこと聞いてる? 困らせていない?」

 お母さんは子どものころから「困らせていない?」とよく聞いてきた。ボクはベッドを抜け出したことを思い出し、返事につまる。

 「あ、そういえば、そろそろ夏の制服買っておかないとね。やっぱり入学式のときより一つ大きいサイズがいいかな」

 ボクの顔をしげしげと見つめ、返事を待たずに矢継ぎ早に次の話に移る。病院の外は夏が近づき、ボクの身長も伸びていた。

 「いつ退院か、具体的な日にちは先生からお話あった?」

 「うん、上手くいけば三日後だって」

 「よかった、お母さん看護師さんに話をうかがったら帰るね。そうだ、学校からプリントとか学級通信をもってきたから、目を通しておいてね」

 そういうと紙の束をどさりを置いて、荷物をまとめると帰っていった。なんか、あわただしい。

 そしてその日の夜中、お母さんから聞いたのか、今度はお父さんからメールが入っていた。お見舞いに来なかったことのお詫びと、退院おめでとうという簡単な内容のものだった。

 次の日の朝、そのメールに気づき、ボクは内心ため息をついた。うちの両親は二人とも忙しすぎる。



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