第4話 世間話のような説得だった

 ベッドに戻ると、すぐに看護師さんにこっぴどく叱られた。ベッドを抜け出していたことが、ばれてしまったのだ。

 そしてそれから約二日間は、ほとんど眠り続けた。それは再び耳鳴りがひどくなり、病気がまた悪くなってしまったからだ。左耳は、ほとんど音が聞き取れない。ボクは耳鳴りのする耳側を、枕に押し付けるようにして眠った。

 ときどき朝の早い時間や、夕方ごろに目が覚めては、武蔵塚さんと男が話していた光景を思い出した。あのとき、武蔵塚さんは「わかりました」といった。説得を受け入れた、ということだろうか。ボクはいま、その意味をじわじわと感じていた。

 いま、武蔵塚さんはどうしているだろう。

 こころが、もやもやする。

 いろんなことを考えて、悲しくなったり、寂しくなったりする。そして、その気持ちを忘れるように、また眠った。

 看護師さんたちには、こっぴどく叱ったことで、ボクが反省しているように見えたようだ。食事のときや薬を飲むときなど、やたら優しくしてくれた。

 それにもう一つ、ボクにはベッドを出たくない理由があった。それはこの前、トイレに行ったときに男が説得していた、もう一人の患者さんのことだ。

 ボクが入院しているあいだに、その人も説得されてしまうかもしれない。そう考えると、とても寂しくなった。ボクの知らない人でも、人が死ぬというのは悲しい。

 ところがその日の夜、トイレに行きたくなり、真夜中に目が覚めてしまった。

 病院内は静かで薄暗い。ベッドの中で何度か寝返りをうち、もう一度寝ようとしたけれど、どうしてもトイレに行きたくて仕方がない。あぁ、こんなときにかぎって!

 どうしよう。この旧棟のトイレに行こうか、新棟のトイレにしようか。悩みながらベッドからおきる。

 廊下を出て、右側の旧棟を見ると、やっぱり薄暗くて気味が悪かった。新しいトイレにしよう。廊下を左へ曲がる。新棟にはいり、急ぎ足でトイレに向かった。

 けれどトイレ手前の病室から、明かりと話し声が聞こえてきた。ボクはぎくりとして、足を止める。

 息をひそめていると、話の内容が聞きとれた。

 「世谷さん、もう少しっていって、もうすぐ一年になりますよ」

 女性のかかかっと笑う声が聞こえてきた。真夜中の病院には合わない、あかるい声だった。

 「もう……」

 男の困りきった声が、そのあとに聞こえてくる。

 あの男と、世谷さんという人が話をしているんだ。病室の前をとおるのがためらわれて、つい、近くで耳をすまして話を聞いてしまう。

 「桜の咲く頃になったらって、いっていたじゃないですか。もうとっくに花は終わって、もういまは葉桜ですよ」

 男の話し声はやさしかった。世間話をしているようで、包み込むようにやわらかい、おだやかな話し方だった。

 「もうそんなに時間が過ぎたの? 知らなかった。この部屋は窓もないし、季節もわからないね」

 ボクはなかなか病室の前をとおれない。そのまま立ち聞きするかたちになってしまった。壁にもたれて、二人の会話に耳をかたむけた。

 「窓のある部屋に行きたいね」

 「世谷さん、ワタシにはそういうことはできないんですよ。病院の人じゃないんですから」

 男は軽く苦笑いする。二人は会話を楽しんでいるようだった。

 それからもしばらくのあいだ、二人の会話はつづいた。

 世谷さんは、生まれ育った町の話や、兄弟のこと、昔働いていた仕事のことなどを話した。生まれた町は海と山が近くにあって、みかんがおいしいところだったとか、八人も兄妹がいたけれど、お兄さんたちは戦争で大変な思いをしたことなど、いろんなことを話した。

 世谷さんが話しているあいだ、男は楽しそうに聞いていた。

 ボクは二人の話を聞きながら、壁にもたれて、ぼんやりとしていた。こんなに生き生きと元気に話すおばあちゃんが、病気だなんて、考えられなかった。

 男だって、こんなに楽しそうにおしゃべりしているのに、ほんとうに、死を受け入れさせようなんて考えているかな。

 「じゃ、世谷さん、またきます。今度こそは、ワタシの説得を受け入れてくださいね」

 「じゃね、小暮さん」

 二人の会話が終わり、男が廊下に出てきた。

 男が、廊下で話を立ち聞きしていたボクに気がつく。

 視線を上げて、男の顔を見る。ボクはいま、どんな表情をしているんだろう。



 「おばあちゃん、一年前から説得してるんだね。声は元気そうに聞こえたけど」

 ボクはトイレに行ったあと、男と廊下の長椅子に腰を下ろした。もう男は、ボクの姿を見てもあわてないし、話をはぐらかそうともしなかった。

 「ワタシと会話するときは、どんな人でも元気なときに戻れるんだ。世谷さんも、実際の病状はよくないよ。ずっと寝たきりで、目が覚める時間も短くなっている。人と会話するのも、できたり、できなかったりの状態だ」

 そういえば、この前病室をのぞいたときも、世谷おばあちゃんは静かに眠っていた。

 「どうして、おばあちゃんは一年間も待ってって、いっているの? どうしておじさんも、一年間も待っていられるの? ボク、死神って、もっとさっさと連れていくんだと思ってた」

 「あのね、ワタシにだって働き方のスタイルがあるんだよ。強引に、魂を身体から引き離す方法もあるけど、ワタシはそういうことはしたくない。それは、説得とはいわないだろう?」

 男は両手を広げて、大きな声でいう。興奮気味に話した。

 「本人が納得しないうち、なにかこころ残りがあるうちに、死を受け入れさせることはできないよ。だからワタシは、世谷さんに聞いているんだ。なにかこころ残りはないか、どうしたら説得をうけいれてもらえるか。……でも、特にないっていうんだよ」

 いいわけするようにも聞こえてくる。

 男は大きくため息をついた。世谷おばあちゃんに、手こずっているんだ。

 「おじさん、あまり仕事できないでしょう?」

 男はがくりと肩を落とす。かけている眼鏡も鼻からずり落ちた。どうやら図星だな。

 「このままじゃ……担当をはずされちゃうんだ」

 男が悲しそうにいう。

 「このままじゃ、世谷さん、無理やり魂をひきはなされる。そんなこと……させたくない。死ぬことは、その人にとって、人生の一大イベントだ。生まれることと、死ぬことは、一度しか出できない大切な体験なんだよ!

 ワタシたちにとっては、仕事でであう一人でしかないけど、流れ作業のように、『はい、あなたあした死にますよ』なんてことはしたくないんだよ!」

 「……おじさん、この仕事むいてないよ」

 男はふたたび肩をおとす。

 どんどん小さくなってしまう。なんか、きずつけちゃったみたいだ。

 「でも……ボク、おじさんの考えかた好きだよ。ボクが死ぬときは、おじさんに担当になってもらいたいな」

 男は目をみひらいてボクを見つめた。それから視線を床におとす。そして小さな声で

 「ありがとう」

 といった。

 「裁判所も、死亡予定者の死をいつまでも待っているほどあまくないんだ。本人の気持ちに関係なく、身体から魂を引きはなされるときがきてしまう。ワタシは、世谷さんに自分から、死を受けいれてもらいたい。そのために、できることは、なんでもやりたい」

 「ボクに手伝えることはある?」

 男は少しほほえみ小さな声でいった。

 「……なさけないなぁ……」


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