第15話 蝸角(かかく)の争い
能登頭取は定例の取締役会を終えて頭取専用応接室のソファに深く座ってため息をついていた。
阿久田専務の父親は能登を育ててくれた頭取で人格者だった。能登は恩人と思っていたし、能登を始め多くの行員役員は彼を尊敬していた。
だからその息子の匠もそう言う父親を尊敬し、かつ経営資質を持った人材だろうと思っていた。
しかし、専務室の盗聴機から聞こえてきたと報告されたのは、いかにして自分が頭取になるかだった。
確かに現状は、阿久田専務の定年まで残り四年。一方の能登はあと五年を残している。
阿久田が頭取になるチャンスは能登が定年前に退職するしかないのだ。
その準備として、阿久田は派閥を作って取締役や業務執行役員に止まらず、行員部長や営業店長クラスまで人事上の優遇をちらつかせて派閥に取込み自身の考える業務方針を進めている。
そのやり方に反発したのが加苅繁(かがり・しげる)取締役常務だった。
加苅常務は人事部担当で専務が自分を越えて人事権を振りかざすことに猛反発し、能登のところへも「示しがつかない」と怒鳴り込んできたこともある。
そんな事もあって専務の人事的な優遇措置は影を潜めたが、陰で専務派以外の者の業務執行を妨害したり悪評を流したりしていて、それに気付いた常務はそう言う行員役員を常務派に加われば救いの手を差し伸べると言って派閥を作り出したのだった。
能登は派閥が互いに競って好循環を生み出すならと見守る姿勢を貫いてきたが、互いに業務遂行を妨害しあうような悪循環に陥ってしまった。
そんな中で起きた漏洩疑惑。専務と常務からはお互いに相手が陰で指揮して漏洩させていると主張する。
能登は止むを得ず探偵に調査を依頼するしかないと決断したのだが、なかなか難しいようだ。
そこへ専務の愛人だった行員がホテルで死んだ。警察はまだ発表していないが、能登は他殺を確信している。
その他にも何人もの行員が亡くなった。
風評も看過できない程強いものになっている。
どう乗り切るか……。
能登の中でしだいにある方向へ進もうと言う気持ちが強くなりつつあった。
それには相応の覚悟が必要だ。
先代の頭取ならどう判断しただろう……思いを馳せる。
つけっぱなしのテレビから「邦日銀行」と言う言葉が耳に入り、目をやる。
顔にモザイクをかけた男性だろう人がインタビュアーの質問に声質を変えて答える形で会話を進めている。
「……取締役がふたつの派閥に別れていて、互いに足の引っ張り合いをしています。競争なんてもんじゃないです。蹴落とし合い、罠にはめ合い、悪評の流し合い、出来ることは何でもやってましたね」
「どうしてそんな風になったんでしょう。それで銀行が繁栄するとは思えませんが?」
「銀行の事や顧客の事なんか考えて無いんですよ。行員も取締役も常務も専務も定年がありますから、夫々の定年前に昇進することばかり考えてるんです。私はたまたま派閥に属さずに取締役になりましたが、あまりの醜さに定年前に辞職したんです。あのままいたら病気になってたかもしれない」
「はぁ、そんなに偉くなりたいってことなんですね」
「……権力を持ちたいってのもあるだろうけど、金じゃないかな会議を離れたら金の話しばっかりしてたから」
「へー昇進するとそんなに収入が違うんですか?」
「ははは、細かくは言えないけど、役員になったら数百万では足りないくらい、肩書着いたらさらに百万単位で違ってくるんですよ」
「はぁ、さすが大手銀行ですね。では、改善をするにはどうすれば良いでしょう?」
「無理じゃないかなぁ……今の専務と常務を辞めさせれば少しは変わるかも知れないけど、その下にいる役員も散々対立してきたんでいまさら握手なんて出来ないんじゃないかな……」
「頭取はどっちの派閥?」
「頭取は孤立してますね。どっちかを持ち上げれば反対側から反発されるから、何も言えないんじゃないかな」
能登には誰が喋ってるのか見当がついた。自らの失策の責任をとって辞任した男だ。
今置かれている銀行の状況を憂さ晴らしの積りで偽って言ってるのだろう。哀れな奴だ。
才川が殺され、役員室の盗聴が出来なくなってみると、耳を塞がれたミュージシャンのようだと思う。
だからと言って、同じように信用できる行員は他にはいない。
「どうしたものかなぁ」
能登が声を出したところへトレーを持った女子行員がきてきょとんとして能登を見ていた。
「おぉすまん。ひとりごとじゃ」
そう言うと行員はにこりとして「どうぞ」コーヒーを置いてゆく。
「そうだ、専務と常務それに監査部長とシステム部長を呼んでくれないか」
三十分後、顔を揃えたところで会議で言った不倫や行員の監督について再度繰返し言ってから。
「漏洩問題については監査部長とシステム部長が責任を持って極秘に調査してくれ。解決できなければ責任をとるつもりでな。そして調査手法や関係行員の氏名など具体的に報告書にまとめて提出してくれ、専務と常務はそれをサポートしてやってくれ。あんたがた二人も同様に責任を持ってもらう。年内に決着させたい良いな」
*
邦日銀行入社五年目の山岸は本店法人営業部に所属し新規勧誘と既往先への取引深耕を担っていた。
入行二年目になった頃には行内に二大派閥が存在し対立する姿を時として目にする様になっていた。
山岸自身はどちらに属すわけでもないしそう言う立場の上司もいる。
しかし、営業部の部長は常務派で本店長は専務派と自ら宣言していて互いに相手を無視している。
ある日、既往先の隣の工事中だったビルが完成し数社の看板が掲げられたのを見て、山岸は何の情報も持たずに飛び込んだ。
先ずは一階のフロアーに入ってみると二十名ほどの社員が忙しそうに動いている姿が目に入った。男性社員は背広を脱いでワイシャツの袖をまくって箱を開けたり机を運んだりしていて、営業が始まっているようには見えなかった。
取り敢えずと思ってカウンターで名刺を渡し挨拶に来たと告げる。
それで帰るつもりをしていたのだが、以外にも受付の女性が「どうぞ」と言って応接室へ案内してくれた。
そこもまだ調度品などは無く、がらんとした八畳間ほどの洋室に応接四点セットが中央にどかっと置かれているだけだった。
山岸は立ったまま相手を待っていた。
ややあって年配の男性が「お待たせして申し訳ない。どうぞ掛けて下さい」
差し出された名刺にはクールジャパン(株)社長鏑新(かぶら・はじめ)とある。
「ちょうどよかった、誰もここへは来ないようなので、こっちから行こうと思ってまして……」
長い挨拶の中で口座を開設しいずれ資金援助のお願いもしたいと語った。
山岸は口座開設に必要な謄本や印鑑証明書などを用意してくれたら自分が来ますと伝える。
銀行に戻り日報にその旨を記載した後、その会社について調べてみた。
驚いたことに上場会社の中にその名前はあった。
資本金二億一千万円で昨年度の売上は八千四百億円とある。社員数は全国で二千六百人余りに上る大企業の中の中堅どころといった感じだ。
メインバンクにはほかの銀行名が記載されていて、浅草にもその支店があるので何故邦日銀行に声をかけたのか理解に苦しみ、次回訪問時に訊いてみようと思った。
一週間後クールジャパン(株)から山岸に電話が入り、書類の準備が出来たとのことだった。
山岸はすぐにその会社に向かった。
「あのーお電話を頂いた邦日銀行の山岸ですが……」
受付女性の怪訝な表情を見て山岸の脳裏に不安が生まれ声が小さくなってしまう。
それでも女性は応接室のドアを開けてどうぞと案内してくれた。
中を覗いて驚いた。高級そうな飾り棚が置かれ、下段にはこれも高級そうな陶器が数点並び、上段にはさらに高級そうな盆栽がどっしりとした幹から太くて味わい深い枝を数本左右に広げていた。
そして、あろうことか本店長が社長と談笑していたのだ。
「あっどうしてここに……」
山岸の不安が的中した。
大口取引先になるかも知れない会社の新規の取引だから本店長は自分の、敷いては専務派の実績にしたいんだろうと瞬時に思った。
「あのー、山岸ですが、書類の用意ができたとお知らせ頂いたので伺ったのですが……」
「はい、ご苦労様です。どうぞ、掛けてください」
社長がにこやかな表情で言ってくれた。
本店長が尻をずらして山岸の座る場所を作ってくれた。
「君がしかかった事案だが、こちらは大手の企業さんだ、君ひとりに任せきりにするのは失礼に当たるから私が挨拶に伺った訳だ。手続きは君が遺漏の無いようきちんとやりなさい」
山岸は、本店長はいかにも礼を尽くすと言いたげだが、きっと行内では専務派の実績として上層部で話すはずだと思ったが、反論する場面でもないし、逆らっても仕方ないのでそうですかと頷いた。
三期分の決算関係書類や経理関係者の名簿なども用意してあって手続きは三十分ほどで完了した。
「で、口座開設はおいくらで?」山岸が訊く。
「三億二千万円でお願いします」山岸は社長の口から出てきた答に驚いた。
「えっそんなに大金で……」
どう返事をして良いのか思い当たらず、おそらく口をだらしなくあんぐり開けて社長を見ていたんだと思う。
「山岸くん、応援を呼びなさい。君ひとりじゃ持てないだろうし、危険だ」
本店長の声で我に返った。
「はい、済みません。あまりに大きな金額だったもので……」
そう言ってすぐに課長にその旨を伝えた。
二名の応援と車で迎えに来ることになった。
その間に現金の預かり票を起票、「通帳をお持ちした際回収します」と伝えて渡した。
男性社員が大きなジュラルミンのケースをふたつテーブルに置いて蓋をあけ「お確かめください」
山岸は、束の数だけを確認した後、本店長も束数を確認する。ふたりで確認するのがルールだ。
大口取引先の場合にはそうする手順になっている。
札勘は持ち帰って機械で行ない、客先へその旨を伝えておく。
メインバンクの件を訊いてみると「一行だけでは金利などの優遇措置がどうなのか分からないし、結局言いなりになってしまうので、二行にしてこちらのメリットを出したいと考えてみたんですよ」
社長は丁寧に答えてくれた。
銀行に戻り課長に報告するとすぐに部長が飛んできて最優先で口座を開設するよう指示し倉庫から山のような粗品を紙袋に詰めて持って来た。
「通帳を返す時に一緒に行く。本店長なんかに任せておけない。これは常務派の実績だからな」
いやな予感がしたが何も口には出さなかった。
一時間後、準備ができて部長に同行して貰ってその会社へ向かった。
次の日だった。行内日報に「加苅常務の指示で営業部山岸が上場企業の新規口座を開設」と大見出しが掲げられ、詳細な記事が載せられた。
昼に山岸が外回りから帰ると本店長に呼ばれた。
「きみに同行して契約を締結したのは俺だろう?」
本店長にそう聞かれて違うとは言えなかった。
「だったら、何で常務の実績みたいなことになるんだ? きみがそう言ったのか?」
「いえ、僕は何も言ってません」
「だったら、何故こう言う行内日報が流れるのよ。総務の係りへ行って、間違いを是正させて来い。すぐにだぞ!」
本店長に叱られてしまった。しかたなく総務へ行って事情を説明した。
翌日行内日報に「上場企業の獲得指示は阿久田専務の指示だった」と言う見出しの訂正文が流れた。
すかさず、部長に叱られた。
しかたなく、また総務へ行って事情を話した。
翌日行内日報に「上場企業獲得に当たって、法人営業部の山岸が八方美人の対応」と言う見出しが掲載され、山岸は驚いて記事を読んだ。
「常務と専務がビル建設開始当初からその上場企業へ顔を出し取引開始を約束していたものを、山岸が常務と専務の双方に良い顔をして同行させて欲しいと頼み込み、成約になると自分の実績として日報に計上したため、常務と専務から叱責された」と言う様な内容だった。
山岸はショックのあまり言葉も出なかった。
それ以来、山岸のことを行員は「八方美人」ならぬ「八方醜男」と呼ぶようになり、特に女性行員の冷ややかな目が若い山岸には耐えられないほど辛いものだった。
特に密かに想いを寄せる娘にあからさまに嫌な顔をされた時には心が折れた。
その後、成績評価は実績に関係なく最低なものにしかならないため気力を失ってゆき、翌年、山岸は銀行を辞めざるを得なくなった。
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