地に堕ちた銀行

闇の烏龍茶

第1話 始まり

「ただいまぁー」

いつものように元気一杯に学校から帰ると、今日の両親の様子は小学六年生の彩花にも分かるくらい可笑しかった。

いつもなら「おかえりー」と明るく答える母も、工場の方から「おかえりー」と叫ぶように言う父も今日は居間で向かい合って俯き加減に座っていた。

 母は彩花の姿を見つけ疲れ切った声で「おかえり」

ぼそりと言って立ち上がり冷蔵庫からジュースとプリンをテーブルに置いた。

「どうしたの?」

そう聞かずには居られない雰囲気だった。

数拍の間を置いて父がぼそりと語り始めた。

「お前には関係ないが、いつも仕事をくれてたとこが、最近の景気の低迷が響いて事業を縮小せざるを得ないんだと。だから、父さんとこに発注できなくなったって謝りにきたんだ。……それで、働いてくれてる人のためにもと思って、あちこち仕事を貰えないかとお願いしてきたんだが、どこも景気がなぁ……」

彩花には良く理解できなかったが仕事が上手くいかなくなったらしいことは分かった。

「ふーん」

それ以上言いようがなかったし、分からなかった。

「あんたは、関係ないからおやつ食べたら勉強しなさいよ。宿題は無いの?」

いつもの母の台詞を聞いて少しほっとした。

 

 そんなことがあった一週間後の事だった。

「ただいまぁー」いつも通り元気に玄関を開けて驚いた。

シーンとしている。

母が買い物に行ったらたまにはそう言う事もあるけど、でも工場の方から機械のうるさい音は止むことが無かったのに……。

「どうしちゃったんだろ?」

呟きながら居間に入っても誰もいない。裏口のドアを開けて工場の方を見ても人のいる気配が無かった。

「お母さーん、どこー? お父さん?」

呼んでも返事が無い。

工場のシャッターの僅かな隙間から身を屈めて、うす暗い工場に入って見上げた瞬間、身体が凍り付いてしまった。

どれだけそうしていたのか……

「お母さん? お父さん?」

やっとの思いで本当に小さな声で呼びかけた。

身動き一つしない二人。

動きようが無いことは彩花にも分かったいたはずなのに、……

「お母さーん、お父さーん……」

悪夢のような光景が徐々に現実味を帯びてきて叫んだ、両親が天井の梁からロープを垂らし首を吊っていたのだった。

「きゃーーっ! お母さーん、お父さーん、誰かぁ助けてぇ―」

彩花は力一杯叫んだ。

「うわぁーーん……」

「どうした彩花ちゃん」

従業員のお兄ちゃんが声をかけてくれた。

指を差し「お母さんとお父さんが……うわぁーーん……」

「うわっ大変だ!」

お兄ちゃんが叫んだ後の事はよく覚えていない。

……

 

 中学校へ入ってから浅草の叔母さんに、どうして両親が亡くなったのか教えて貰ってようやく次第を知った。

工場を続けられなくなり両親は自宅も工場も売って、そのお金を従業員の給与と退職金として使い切り、首を吊ったそうだ。

そして彩花のことを頼むと叔母さん宛ての書置きがあって、生命保険の受取人を叔母さんにしていたと言う。

それで小学校を卒業してすぐ叔母さんの家で暮らすことになったらしい。

「だから、彩花は何の遠慮もいらないのよ。生活費も学校へ行くお金も貰ってるんだからね」

叔母さんは優しく言ってくれたが、彩花は一時でも早くひとり暮らしを始めようと心に決めていた。

 

 高校を卒業したら働こうと思い先生にそう言ったのだけど、先生から話を聞いた叔母さんが「彩花ちゃん、お願いだから大学へ行って頂戴。あなたのお母さんと約束してるの、必要なお金も貰ってるから……」強引に勧められ断り切れずに浅草の北道大学へ進んだのだった。

その時、叔母さんが両親の自殺した理由で、伝えていないことがあるのと言って教えてくれた。

 父は従業員の給与と新たな取引先を見つけるまでのつなぎ資金を借りるため、浅草にある邦日銀行の本店融資課へ行って申し込んだそうだ。

長年取引があって融資の担当者も上司も分かってくれて「良いでしょう」と話しがついていた。

しかし、人事異動で本店長として着任したばかりの阿久田匠(あくた・たくみ)が融資はダメだと言ったらしい。

融資の担当者も課長も交渉してくれたし、父も何回か阿久田店長と話したがまったく聞き入れてもらえなかったと言う。

それで父は先が見通せなくなり、従業員と彩花の将来の事だけを考えて自殺の道を選んだと話してくれた。

 彩花は聞いているうちに来たばかりで何も分からないくせにと腹を立てた。

叔母さんが話し終えるころには悔しさのあまり涙が溢れて止められなかった。

「見返してやりたい」と言う気持ちが、しだいに「復讐」と言う言葉に置き換わり、心の中に大きく広がって行ったのはその後だった。

大学への通学途中で見かける「邦日銀行」と言う看板を見るたびに憎しみが強くなり、三年生になった頃には復讐するために邦日銀行に就職しようと思うようになった。

 邦日銀行は国内外に二百五十三店舗を有し一万六千人を超える従業員がいて、顧客数は一千万先を超える国内有数の都市銀行などと大学の求人募集情報誌に紹介されていた。

そして学生課で「初任給が他社と比べ高い上、都内の募集が五十名程度と少ないので倍率高いよ」と教えてくれた。

彩花は何がなんでも就職しなければと思い、金融経済学のほか語学力も重要と情報誌に記載されていたので、英会話塾に通うなどして必死に学んだ。

 

 

 浅草ひさご通りにある古ぼけた四階建てビルの二階に岡引探偵事務所はある。

愛妻家の所長は岡引一心(おかびき・いっしん)と言うこの道一筋三十年の中年のおじさんだ。家族は妻の静(しずか)と長男の数馬(かずま)に長女の美紗(みさ)、それと訳があって十六歳の時から同居する甥っ子の一助(いちすけ)の五人。

数多くの難事件を解決し浅草警察署だけでなく他の警察署や本庁の捜査課長でさえ一目置く存在なのだ。

 

 ここんとこ調査依頼や犬猫の捜索依頼も無くて、静が友人と三人組で伊勢志摩方面へ旅行へ行っていて、もうそろそろ帰ってくる時刻のはず。

お土産を一杯持って「ただいまぁー、長い事留守してすんまへんどしたなぁ」なんて言いながら笑顔一杯にしてな。

息子たちも同じことを考えているのだろう、どことなくそわそわした感じで事務室のソファに並んで待っている。

……

バタンと車のドアの閉まる音。

階段をゆっくり上がってくる草履の音に衣擦れの音。

子供達は待ちきれずに事務所のドアを開けて踊場へ。

「お帰りー、お土産は?」と、数馬だ。

「へいへい、ちょっと待っとくれやす。美紗これ持って」

階段から聞こえてくる声。静が帰って来た。

一心は気にしていない振りをし新聞を広げる。

「へぇ、ただいま。あんはん今帰りましたで。長い事留守させてもろうて、おおきにな」

新聞を置くといつもの笑顔と着物姿がそこに有った。

思わず顔がほころびそうになるが我慢して一家の主らしくどっしりと構えて「おぉ」

かっこよく応じた。

そのつもりだったが「あんはん、どないしたん? あてがおらんで寂しくて拗ねてんのか? よしよし」

いきなり静が一心の頭を撫でる。

子供らがその様子をじっと見ている。

「ばか、何言ってんだ。一家の主に向かって」頭に乗った手を払ってコーヒーカップに手を伸ばす。

「そやかて、あんはん、新聞さかさまやで!」

指摘されて気が付いた。

「くっそーばれたか。やっぱダメだな、ちょっとはかっこいいとこ見せたかったんだけどよ」

照れ隠しで大声で喚いた。

奴ら全員で大笑いしやがって「そんな奴ほったらかしてさ、早くお土産?」

ムカッとくるこの男言葉は美紗。

二十歳を過ぎてんのにいまだ男言葉。もちろん彼氏なんて出来るはずもない。

静は微笑みを浮かべ紙袋から綺麗に包装された包みを美紗に渡す。

「そいでな、帰り危うく飛行機に乗り遅れるとこやったんや」

子供らは静の言葉も上の空、三つある包みの包装紙をビリビリ破って箱を開けようとしている。

一心は注意をしようと思うが、静はその姿を嬉しそうに見ているので止めた。

「また、のんびりお土産でも見てたんだろう」そっちは放っておいて静に話しかける。

「ふふふ、分かりまんのかいな。せやねん。でな津市のなぎさまち港から高速船が走っててな、四十五分くらいやったかいな、電車の半分の時間で行きよって、そいで間におうたんや。冷や汗もんどしたわ。ふふふ」

「まぁ遅れたからと言って急ぐ用事もなかったがな。ははは」

「一心、そんな事言って昨日から静は明日帰ってくるよな、とかしつこく言ってて、今朝になったら、静は何時に帰ってくるんだったかなってそればっか、ばかじゃん」

聞いていないかと思ったら聞いてやがる。口の悪いのは美紗に決まってるのだが、当たってるから何とも言えない。

「まぁまぁ、そないに、あての旦那様虐めんといてくれよし、あんたらのてて親なんやからな」

静のほんのりとした叱り口調に子供らはいつも反論できない。

――ふふふ、ざまぁみろ……一心は心の中で叫ぶ。

そこへ匂いを嗅ぎつけたのか浅草警察署の丘頭桃子(おかがしら・とうこ)警部が「こんにちわー」

いつも通りの元気な声を張り上げながら姿を見せた。

「あら、桃子はん、ようお越しやした」

「あらあら、静どっかへ行ってきたの?」

「へぇ伊勢のほうへ、友達とな三泊四日ですわ」

「ほー、で、それがお土産?」

「へぇ桃子はんもどうぞ」

静の勧めに反応して数馬が菓子箱を警部の方へ差し出す。

こういうところで男の子の優しさが出る。

「そっかぁ、丁度いいとこへ来たもんだ、ふふふ」警部は数馬ににこりと笑顔を向けて手を伸ばす。

「警部、署まで匂ったんじゃないのか?」

「まぁ女の勘かな? いっただっきまぁーす」

警部がパリパリとせんべぇをかじり始めてすぐ警部のスマホが急を知らせる。

 

 

 邦日銀行の監査部は営業店グループと本部グループに別れていて、才川鈴子(さいかわ・すずこ)は本部グループに所属している。

 本部グループは年度毎部所別に、前年度の監査結果や金融庁の指針などを鑑みて監査項目を検討し、直接頭取の決裁を経て本部臨店スケジュールを立てることになっている。

五月中にはそれらの手続きを終了し、六月に入ると前年度の監査結果と新年度の計画概要を取締役会に報告するのだ。取締役会への報告を計画概要とするのは、取締役の下に配置されている業務執行役員も取締役会に出席するので、細かな鑑査項目を開示すると事前に備えられ牽制機能が低下するからである。

それが終わるとグループ別に恒例となっている打ち上げ兼決起の会という名目の飲み会がある。

 

 普段は真面目腐った事しか言わない課長もこの時だけはただのすけべおやじになり下がる。

本部グループを構成する五十名近いメンバーが長テーブルを囲み乾杯の音頭で宴が始まる。上司のいる場の多少の緊張感ある雰囲気が和んでくると、先輩や上司に酒を注ぐため各自勝手に動き出す。

鈴子は女性だからと言って水割りを作ったり足りなくなったビールを持って行ったりはしない。給仕はすべて若手がやるのが監査流だ。

鈴子も酒とビールを持って歩き回る。

 一巡したところで鈴子は気になっていた事を二年先輩の横里駿太(よこさと・しゅんた)にビールを注ぎながら問いかける。

「ねぇ、一年間お疲れさんでしたけど、横里さん先月辺りから何回も課長に何突っかかってたの? 結構、まじな顔してさ。ん?」

横里の顔には明らかな動揺が見て取れたが、「いや、仕事の事さ」

「どんな?」

「システム監査ってずぶの素人がやってちゃ監査にならんだろうって話しさ。お前もそう思うだろう?」

「確かにそうだけど、でも、それって前から言われててそれで若手はシステム部に数年間出向みたいな形で行ってるでしょう?」

「そんなんで理解できると思うか?」

「ふーむ、そんな話をしてたっていう訳? あの時のふたりの表情からはそんな話しには思えなかったわよ」

「ほー、じゃどんな風に見えたって言うんだ?」

横里の表情に苛立ちが見え隠れする。それは鈴子の質問が痛い所をついている証拠だ。

「そうねぇ、行内に何か大きな問題というか不正行為みたいなものがあって、課長は知ってるのに動き出さないから横里さんが尻を叩く、みたいな?」

「ははは、不正行為ね……お前、テレビドラマの見過ぎちゃうか? ……俺、あっちの先輩に酒注ぎに行くから」

横里はそう言って話をはぐらかして立ち上がってしまった。

鈴子はある人物に行内のある調査を命じられていて、それに関わることのように感じて話してみたのだが上手く誤魔化された気がした。

――やっぱり、何か隠してるな……鈴子は胸の中で呟いた。

 

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