第8話 深き所からの来訪者
「そっち行ったよ! 気を付けて!」
ガノガンダ樹海中層域手前に響き渡る緋色の声。
迫りくる水の塊を視認した一葉は「ココはまだその時ではないと」木の影に隠れてその脅威をやり過ごした。
水がぶつかっただけとは思えない重低音が響き、後ろに隠れていた一葉にもその振動が伝わってくる。もし当たってしまったら運が良くて失神、悪ければ死に至りそうなその威力に、冷や汗が出てくる。
一葉に気を取られている隙にと、大きく跳躍した緋色が相対している巨体を蹴り飛ばした。
細い彼女から繰り出されたとは思えない威力に、体が揺れる。
効果はそれなりにあるのだろう。だがしかし、しなる体はその衝撃を分散してしまい、目に見えたダメージは与えられていない。
すぐに体勢を立て直し、お返しとばかりに緋色に向かって口を開き、
「お願い、ピーちゃん! ――――
マリーの宣言と共に火の鳥から、一条の炎が解き放たれる。
当たれば消し炭になるだろう頭を狙ったその攻撃は、水中に潜ることで躱された。
「あーっ! もう、やりにくい!」
一葉と同じ木の影に戻ってきた緋色が苛立ちを表す。
同じような攻防が二度三度と繰り返され、決定打に欠けている状況。
「ねー、一葉君、やっちゃっていい?」
「ダメだよ! 温存しないと」
本気になっていいかと尋ねる緋色に、一葉は却下の旨を伝える。
「……だよねー」
実際そうする気もなかったのだろう、彼女は苦笑いして頷いた。
水中から出てきた頭が再度一葉の方を向く。
その容姿は巨大な蛇だ。一葉など軽く飲み込めそうな頭を持つ黒蛇が様子を伺うように、ゆらゆらと頭を揺らしている。
全長は水中に隠れており伺い知れないが、優に十メートル以上はあるだろう。
「なんで大型の魔獣がこんなところにいるかなー」
ガノガンダ樹海にある湖を住みかとする黒蛇。
本来は中層域や深層域にいるはずの大型の魔獣。
それが今、一葉たちが戦っている相手だった。
蛇特有の体ための打撃の通りにくさ。
湖をフィールドとしている故の足場の悪さ。
十分な威力のある遠距離攻撃。
深追いをせずに、こちらの攻撃を水中に潜って躱す黒蛇の慎重さ。
僅かずつダメージを与えてはが、それでも苛立ちを覚えるには十分な程にはやりにくい相手だった。
さらに焦燥を駆り立てるためなのか、チロチロと舌を出しながら待ち構えるばかりで、湖から外には攻め入ってこない。
そのぐらいの知能は持ち合わせているように見え、厄介な相手だと一葉は思う。
緋色が本気になればすぐに決着はつくのだろう。
恐らくは十秒もかからない程だと一葉は予想する。
だが、目的は討伐ではなくこの後も続くマリーの護衛。
赤い姿になると体力の消耗が激しいらしく、たとえ大蛇を楽に倒せるとしても今は使うべきではない。
また、依頼は護衛であるため本来は魔獣と無理に戦う必要もないのだが、当初予定していた結界を施す地点というのがまさしくこの湖であり、逃げる事も叶わなかった。
マリーに結界を張ってもらうためには、この黒蛇を倒すしかない。
つまりは、相性が悪かろうが戦うしかない状況だった。
後ろに隠れたまま一向に出てこない一葉たちを煽るためか、その口から再度水の塊が吐き出され、その衝撃によって盾にしていた樹木がミシリと軋みながら傾きだした。
たまらず緋色と共にすぐに別の木の後ろに転がり込む。
このままでは徐々に身を隠す場所も削られていくだろう。
「切り札を見せるなら僕がやるよ」
「――――おっけい」
戦闘が長引いてしまえば他の魔獣の横やりも怖くなってくる。
自分がやるべきだと決意した一葉は、
赤い双眸に
戦闘における一葉の役割は囮だった。
見た目からして緋色に比べて弱そうだからか、彼は何故か〝
本来危険なはずの囮役をやることに、一葉は躊躇せず、また緋色も止めることなどしない。
「マリーさん!」
大蛇の眼を睨み返しながら、離れた位置にある樹木の影に隠れているマリーに呼びかける。
「僕が囮になります! 隙が出来たら撃ってください!」
「分かりましたー」
マリーの応答が耳に届くと同時、黒蛇が一葉に向かって突進した。
流石に獲物が無防備にその身をさらされては我慢が出来なかったのか、今までの慎重さなど忘れ去ったように口を大きく開き、一葉を飲み込むために愚直に前進する。
その巨体からは想像もできないような速度で、一気に一葉との距離が詰められる。
壁となって迫る口腔。
人一人の身長をはるかに超える大きさのそれは、小柄な一葉などたやすく丸呑みにするだろう。
怖い。
恐怖に後ずさりそうになる。
それでも、一葉は最大限引き付けるべく、静かに大蛇の牙が到達するのを待っていた。
右腕を胸の前に。
光が集まり、手の中に現れた
そうして、牙が彼に届く直前、
「――――紡いで」
一葉は
青白い光に包まれる体。
変化する肉体と衣装。
瞬間、拡張された能力によって全てがスローモーションのようになる。
刹那のうちに何が有効かを判断した体が、左足で一歩前に踏み込む。
「――――っ!」
そして置き去りにされた右足が、渾身の力をもって振りぬかれた。
空気を揺らす音と共に下顎が撃ち抜かれ、大蛇の体はその衝撃で丸ごと宙に舞う。
「さっすがー!」
待ってましたとばかりに跳躍した緋色の体が、いまだ空を登り続ける蛇のさらに頭上に至った。
くるりと縦に体を旋回させる。
「うらぁーっ!」
その勢いのまま、踵を蛇の頭に叩き込んだ。
上昇から反転、直角に急降下した蛇の頭が地面に激突する。
「あーっと……」
その光景を見ていたマリーが、魔法を放つべく眼前に突き出していた杖をそろそろと降ろした。
「わたしは必要なかったですね……」
既に黒蛇は地面にその頭をめり込ませたまま、絶命していた。
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