第22話 逃げなきゃいけなかった

「ようやく、なのね」


 泥から生まれた女性が動き出す。

 すっと筋の通った鼻筋。

 意志の強そうな綺麗に伸びた眉。

 どこか緋色と同じような雰囲気を持つ――それが本当に人なのであれば、美しいと形容できる女性。


「あれからどれくらい経ったの?」


 ハッキリとしたその声は、彼女が夢や幻の類ではなく、確かにそこにいるのだという事を示してくる。


「二百年だ。待たせた」

「そう……、そんなに……」


 一葉は壁に背中を預けながら彼らの話を聞いていた。

 なるべく注意を引かないように、小さく浅い呼吸を繰り返す。

 理解など何一つできていないが、マズイ状況である事だけは一葉も分かっていた。

 本能が早くここから離れろと叫んでいる。

 だが最悪なことに出口はルーガと女性の向こう側。

 一刻も早くこの場を離れたいのに、これ以上は距離を取れないでした。


「じゃあ、あの子たちが……」

「ああ、あいつらが」


 そして、一葉の些細な努力もむなしく、彼らの視線が一葉に向けられた。


「――――っ」


 悪寒が跳ね上がる。

 彼女から発せられるソレの正体は身に覚えがあった。


(〝新たなる獣アウォード〟だっ!)


 感じるのは〝新たなる獣アウォード〟に追いかけられている時の悪寒と同種のもの。

 だがその密度が比ではなかった。

 〝新たなる獣アウォード〟たちがもたらす悪寒は「ちょっと気持ち悪い」程度の物だった。

 目の前の女性から発せられるそれは桁が違う。

 全身の血液が凍り付くような寒さ。

 心臓を鷲掴みにされるような鈍痛。

 ぐにゃりと視界が狂う。


 質量をもった濃密な悪寒が空間を支配していた。


「少しお話をしたかったけど、その様子じゃ無理そうね」


 耳に届く声が、今度は聴覚をかき乱す。


 震えが止まらない。

 呼吸すら正常にできない。

 吐きそうになるのを必死に抑える。

 壁に背を預け、一葉は何とか倒れるのだけは耐えていた。


「仕方ないわね。じゃあ……、力を見せて?」


 何かフザケタ事をいって、一歩近づいてくる。

 考え込むようなしぐさと共に、先ほどのルーガのように彼女の影が蠢きあふれ出した。


「……あ、何か面白いのがあるわね。これを使おうかな」


 黒い泥から〝新たなる獣アウォード〟が生成される。

 女性の左右に、巨大な熊の形にでたらめに角を生やしたようなナニカ。

 そして中央。

 ルーガと同じような背の高さの人が形どられ――――


「掴まって!」

「え――」


 その姿を見る前に、体が何者かに引っ張られた。


 凄まじい速度で景色が流れる。

 耳元で鳴る大気を切り裂く音と、屋根を蹴って跳躍する音に、コチラに来てしまった日の事が想起される。

 一葉は緋色の肩に担がれていた。


「ごめん、大丈夫だった!?」


 建物の屋上を跳躍しながら高速で移動する緋色に、精いっぱいの力で小さく頷きを返す。


(た、助かった……?)


 離れた事で一葉に安堵が生まれ、指先からゆっくりと血が巡りだした。

 体温とともに少しずつ体の感覚が戻ってくるのを感じる。

 だが未だ悪寒は拭えず、その根源は一葉の心臓を掴んで離さなかった。

 ルーガの影から生まれた謎の女性。

 あの人は何者で――、いやアレは人間の形をしたナニカだった。

 〝新たなる獣アウォード〟と近い存在。

 そしてそんなモノとルーガの関係。


「ねえ、愛和さん、アレ、何? 何がどうなってるの?」

「ごめん。私も分からない。何が何だか……。けど、あんなの絶対やばい」


 僅かに一葉を支える手に力がこもる。


(……震えてる?)


 その手が小さく震えている気がした。


「――――だから私は戻って、アレを止めないと」


 そう言って最後に大きく飛んだあと、軽やかに着地した緋色は一葉を地面に降ろした。


「三和切君はこのまま真っすぐ走り続けて」

「え……?」


 顔を見せぬままくるりと反転し、都市の中央に戻ろうとする緋色。


「危ないよ! 逃げよう!!」


 その背にかけた一葉の言葉は、首を横に振って否定された。


「大丈夫だよ」


 一葉に向き直り、場にそぐわない華やかな笑顔が咲く。


「言ったでしょ、私は<英雄>なんだよ。戦えるし、君のことも、守るから」


 だから安心してね、と茶化すようなウィンクをして緋色は再び都市の中央に視線を向けた。

 あの夜、星空の下で言った、その時が来たのかというように。


「――それに、ルーさんにも話を聞かなきゃ」


 漏れ出てしまったかのような独白。

 一年間を共に過ごした人間のまさかの行動に、緋色が何を思ったのか。


「あ――――」


 それを聞く前に、緋色は大きく跳躍してこの場を去ってしまった。


(置いて、いかれた……)


 それも当然だろう、一葉には戦う力がない。連れて行ったとしても無力どころか足手まといだ。

 自分は何もできない。

 だから、置いていかれた。

 仕方がない。


 一葉は一度天を仰ぎ、


「――――っ」


 それからとぼとぼと走り出した。

 緋色とは逆の方向、都市の外に向かって。

 向かったところで、その先どうしていいかなど分からない。

 それでも行くしかなかった。

 彼女にそう言われたから。

 言われたならば仕方がない。


「…………」


 無意識に強く噛んだ奥歯からは、軋んだ音が漏れる。

 その音を免罪符に、一葉は走り続けた。



◇◆◇◆◇




 愛和緋色は旧ユーセロイを疾走していた。

 急ぎ都市の中心に戻るべく、屋根から屋根へと飛び移る。

 この移動も慣れたものだった。建物の配置からルートを想定し、どこからどこへ飛ぶのが最適かを考えながら進んでいく。

 道を気にせず、頭上の警戒が必要のないこの方法は、東京のような高層ビルの無いこの世界では非常に有用だと改めて実感する。

 この移動方法を教えてくれたのもルーガだった。


(ルーさん……)


 ルーガ・セイレス。この世界に来た時から彼女を助け、今日まで導いてくれた男性。

 自分の事を多く語ることは無かったが、それでも緋色は彼を信頼していた。


 強く、決して甘くはないが非情な性格でもなく、緋色の事も気にかけてくれていた。

 戦い方を教えてくれたのもルーガだ。

 彼のように強くなるべく、緋色は努力を重ね、今では生きて行くのには十分な力を得ることが出来たと自負している。

 そんなルーガは緋色にとって師であり、この世界での兄のように思っていた。


 その彼が、恐らくは一葉を利用して解くべきではない封印を破った。

 あの女性を世に出すために。

 最初から騙されていたのか、それとも偶然の結果なのか。

 何か事情はあるのだろう、それでもアレは外には出してはいけないものだ。


 アレはきっと世界によくない代物。

 自分に与えられた<英雄>の役割ロールもずっと警鐘を鳴らしている。

 知っていれば緋色は絶対反対した。だからルーガも緋色に隠して事を進めたのだろう。


 裏切られた。

 驚きはあった。

 悲しみは今も胸の裡にある。

 信じたくない気持ちも残っている。

 けれど、そういう主観に惑わされず、客観的に物事を判断しなければならない。

 それもルーガから教えられたことの一つ。

 ならば自分のすべきことは定まっていると、緋色は覚悟を決めていた。


(アレは何だろう……)


 そして頭を切り替える。

 封印されていた女性。人間ではないのは明らかなナニカ。

 黒い泥から生まれた以上、〝新たなる獣アウォード〟に近い存在ではあるだろう。

 だが人格を持っているなど、緋色の知識の中にある〝新たなる獣アウォード〟ではあり得ない。

 しかし今の情報では推測も限界があり、緋色は彼女を獣の姿ではなく、人の形をした〝新たなる獣アウォード〟だと仮定することにした。


 問題はこの後の事だ。ルーガと人型の〝新たなる獣アウォード〟を同時に相手取る。

 ルーガだけでも勝てる想像ができないのに、人型の力は計り知れない。

 さらに人型の〝新たなる獣アウォード〟は緋色離脱する前に、二匹の〝新たなる獣アウォード〟と、見間違え出なければさらにもう一体人型の〝新たなる獣アウォード〟を生み出していたように見えた。

 未知なるもう一体の人型の力も、また計り知れない。


「ふぅ――」


 緊張に汗がにじむ。

 久しぶりの格上との闘い。

 加えて未知数の相手が複数。

 そこには不安しかなかった。

 思い返せばいつもルーガと行動を共にしていたため、完全に一人で戦うのは初めてだった。

 それでもやらねばならない。

 何故ならそれこそが、愛和緋色が信じる彼女の使命だったから。

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