第10話 ガラスノナカ4


…いない


いったいどこに…?



開いていない寝室の扉の前を、音を立てず足早に通り過ぎる

誰もいないリビングを横目に見やり、キッチンの包丁…ではなくフライパンを手に取る

包丁だと、相手を傷つけて血がでたらと思うと及び腰になってしまうからだ

その点フライパンだと殴っても打撲

頭などを殴らなければ悪くて骨折くらいで済むし、何より相手が刃物を持っていてもガードが出来る


ソファの前


窓の外、室外のベランダ


収納スペース


隠れられそうな場所を探すが、どこにもいない


「やっぱり寝室か…?」


こういう時こそ真っ先に警察へ連絡するべきだと人は言うだろう


だがしかし、電話をかけるという行為が今の絢には恐怖でしかなかった


電話で話すのに集中している間に後ろから襲われたら…


警察に電話をしたことがバレて、逆上した奴が襲ってきたら…


色々な憶測が頭の中を駆け巡る


なんせ相手はわざと自分の居場所をご丁寧に教えてくるような奴だ

頭がイカれている可能性が非常に高かった


絢はスマホと…和人形を貴重品が一色入っているバッグに入れる

通帳や銀行のカード等は災害が起こった時、すぐに持って出られるようにと全てこの中にしまってある

バッグを肩にひっかけ、フライパンを片手に廊下へと出る


シン…と静まり返る廊下


もう一度洗面所を覗き込み、誰もいないのを確認してから寝室の扉の前に立つ

残された部屋は…やはりここだけだ

玄関のチェーンは閉まっているから、外に出てもいないはず


絢はレバーハンドルをグッと強く持ち上げる


「よし…っ

後は警察に電話を…!」


奴は部屋に閉じ込めた

これで襲われる心配をせずに電話をかけられる


急いでバッグに手を突っ込み、電源を入れたままにしておいたスマホに11…と2つ目までの数字を打ちこんだ


その時だった




コンコン…




あのノック音が廊下に響いたんだ



「…………は…?」



絢はスマホの画面からゆっくりと顔を上げた

最初は寝室に閉じこめているのだから、寝室からノックされているのだと思った

だが、レバーハンドルを握った手に振動は伝わってこない



コンコンコン…



そして絢は気づいた


目を横にスライドさせる

そこにはリビングへの扉がある


その扉が…揺れ動いていた


ノック音は鳴り続け、その度に扉全体が振動する

スマホを片手に扉に目を向けた絢に、やっと見てくれたとばかりに扉をノックする音がどんどん大きく、どんどん回数が増え、終いには扉が壊れるのでないかと思えるほどの騒音となっていた


耳を塞ぎたくなる音の嵐の中

絢は耳を塞ぎ、ただひたすらに困惑していた


なぜか?


それは…扉を叩いているはずの人影が磨りガラス越しに見えなかったからだ


「ありえないだろ…こんなの!?」


リビングに人は絶対にいなかった


それだけは断言できる


なのに…扉はリビング側から叩かれている



絢はスマホをバッグに入れて片耳を押さえながら扉へと進む

すると、近づくにつれて音が小さくなり、何かが磨りガラスに浮き出る


それは人や影ではなかった


白く濁った指…いや、何かの幼虫だろうか?


無数のソレがガラスの中で蠢いていた




「コレ、まさか幼虫…?」


いつの間にか鳴り止んだ音に気づかず、絢は誘われるように手を伸ばした


「ぐ…っ!!?」


ガラスに触れようと前に屈んだら、斜めになったバッグから転印紙が滑り落ちる

その転印紙は絢が伸ばした指とガラスの間へ、まるで意思があるかのように滑り込んで張り付く



次の瞬間


ガラスは木っ端微塵に弾け飛んだ



絢は反射的に腕をクロスし、顔や首に降りかかるかもしれないガラスから身を守るがそれは杞憂に終わった


砂つぶほどの大きさになるまで粉々に大破したガラスは全てリビングの床へと舞い落ちていく

奇妙なことに、落ちるガラスは特有のザラりとした音ではなく、何かの粘液や柔らかい餅を投げつけたかのようなべちゃりとしたものだった


「う…わ…っぁ」


幼虫のようなものは粉々に砕けたガラスの欠片の中でも未だに蠢いていた

そしてあろう事かガラスの中から這いずるように出てきて絢の方へと、もがき苦しみ、のたうち回るように近寄って来たのである


気持ち悪さに思わず後退る

寝室の扉まで下ったところで視界の左端で何かが動くのを捉えた



ガチャ………キィ……



寝室の扉が一人でに開いていく


「…っ!!?」


真っ暗な寝室に人はいない

その代わりに、台所に置いていたはずのミネラルウォーターが絢の目の前で浮かんでいる

ペットボトルの中身は牛乳を入れたかのように白くなり、半分ほど中身がない


ただ、あとの半分には…

碧眼の目玉が潰れそうなほどぎっしりと詰まっており、全ての目玉が絢を見ていた



絢は玄関の扉を開け放ち、廊下を走る


鍵をかけないと泥棒に入られるかも、なんてこの状況で考えられなかった


必死の形相でバッグを抱きしめ、マンションの階段を駆け下りる絢を見て上階の住人達は可笑しそうに笑い、言った



「また3階の呪われた部屋が空くよ」



と…





自分の部屋に戻る事もできず、その日は近くの漫画喫茶に泊まった

個室の椅子に腰掛け、頭を抱える


幽霊や妖怪といった類はこんな状況であっても信じてはいない


…だが、だからといってアレは人が起こしている現象ではないというのは実際この目で見て分かっている


【アレは人間以外の何かである】


それは認めざるを得なかった

頑固だと言われる絢でも、その事実は素直に受け止める


あの部屋から絢が逃げ出したのは、実は恐怖からではない


ただ…只々、気持ちが悪かった


よく考えてみてほしい

ペットボトルに入っていた眼球は新鮮だったのか変な透明な液を纏っていて、中でぬるりと動いていた

それが一斉に絢を見てきたのだ


気味の悪さより先に、気持ちの悪さが優っていた


まだ夕食をとっていなかったのでゴミ箱に顔を伏せても何も出ず、からえずきをする

他の客に何か言われたのか、途中でスタッフが何度か確認に来たが映画を観た感動で…と適当に誤魔化した


落ち着いてきたところで汗を拭こうとバッグを膝に置いて手を入れると、和人形がカサリと音を立てて足元に落ちる


音の正体は転印紙だった


ガラスに張り付いてそのまま置いてきたはずの転印紙が、何故か和人形にまとわりついている


「静電気か…?」


紙を剥がして人形の顔を確認すると…気のせいか

眉を顰め、怒っているような表情を浮かべているように見えた




「え〜!?

何それ、気持ちが悪いね」


「はい

白蟻か何かの幼虫だとは思うんですが、窓ガラスも割れちゃって…」


目玉の事は流石に言えなかったが、ガラスの中の幼虫の事を深山さんに掻い摘んで話し、相談した


「え、それはちょっとまずいんじゃないかな

本当に白蟻なら、木の部分とかが食べられているかもしれないし家自体ガタがきているかもしれないよ」


ボクは虫が部屋に湧いた時点で引っ越すな〜と、紙パックの短いストローを口に咥えたまま、深山さんは想像したのか身震いした


「そうですよね…まだ白蟻とは決まってないんですが、そういう事があったんです」


「なるほどね〜

だから珍しく作業着を借りていたんだね」


「はい」


「アイツらはコンクリートでもなんでも食べるからな

だが、ガラスを食べるとは聞かないのだが…」


郷さんは首を傾げて俺と深山さんの話を聞いていた


「社長、朝から申し訳ありませんでした」


頭を下げる絢にひらひらと手を振り、気にするなと笑う


本当は朝早く作業着を買いに行く予定だったのだが、定休日だった為、急遽借りることになってしまったのである

最初は空が明るくなり始めたのでマンションへ取りに行こうかとも思ったが、昨日の仕事で汚れたままであったと戻る前に気がついた


「それで、どうするの?」


「え?」


「今日もネカフェに泊まるわけにはいかないでしょ」


そう言われ、あ…と間の抜けた声を漏らす

道具を片付けたので、もう直ぐにでも帰れるのだが


「実家は近いの〜?」


「いえ、隣の県なので…」


「あちゃ〜それは遠いね〜

…あ、そうだ絢ちゃん

ウチ、寮があるの知ってる?」


深山さんはそう言い、人差し指を窓の方へ向ける


「え?

寮なんてあったんですか!?」


「あるぞ」

「あるよ〜」


仕事を始める前に絢はあのマンションを借りたので話に出なかったようだが、なんでも仕事場の近くに社員寮があるのだと


「最低限のマナーとか必要だけど、そこは絢ちゃんなら大丈夫だろうし…ね、社長」


「そうだな

謝華君次第だが、どうする?」


社員寮だから毎月の家賃はこれぐらいだぞと、電卓を叩いて提示された金額を見て、絢は即決した


「お願いします」


あのマンションより少し高めだが、その分交通費が浮くことを考えれば毎月の出費とあまり変わらない


「分かった

引越し費用はこちらが持つから、好きな時に声をかけてくれるか?」


「出来るだけ早い方が良いのですが、いつ頃から入居しても良いですか?」


「掃除は他のスタッフが小まめにしているから綺麗なはずだから…

いつでも、なんなら今日から住んでもらって構わない

マンションの清掃も日数の指定は無し、今週は指名の仕事も無いから休みを取っても良いぞ」


「本当ですか?

それなら今日…は流石に荷物を纏めないと引っ越せないので、明日から入れると有難いです」


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