第6話 ハジマリ6

古びた紙には


左に開


右に閉


上下には…


駄目だ

人の名前が書かれているように見えるが、生憎こちらは達筆すぎて読めなかった


そして真ん中に…コレは鳥居だろうか?


書き殴ったかのように、墨でそれは描かれていた


ただ、それだけの紙が目の前に差し出された


「こちらは【転印紙】という物です」


「転印…紙?」


聞いたことのない紙の名称に絢は首をかしげる

だが女将は問いには答えず、淡々と続きを話す


「野良犬がいることは存じあげませんでしたが、それもこちらの落ち度です

ですが額が額ですので…」


コンコン…


「良ければこの紙を使って、ある物を探すお手伝いをしていただけませんか?」


ヒンヒン…


「期限はありませんから、お客様にも良いお話だと思いますょ」


ケンケン…


3人の美女は着物の裾で口元を隠しながら絢に徐々にではあるが近づいてきた


その顔は確かに笑っている…笑っているのだが

細めた目はアーチを描き、眉を片方上げ、立ち上がった3人は斜め横から見下すようにいかがです?と返事を促してきた

それは到底客に向けてする表情と動作ではなく、とても悪意を感じる邪悪な笑みでひたすら絢を見ていた


普段ならコケにされた!と憤慨するところだろう、だが促された俺は…なぜだろう

この3人の話…いや、不愉快な笑い声を聞いていると何も考えられなかった


頭の中は真っ白ではなく無色透明

澄み渡りすぎていて無に近い状態だ

何か行動しようという気も起こらず、言葉を発しようともせず


異様な状況に置かれているにも関わらず、何の感情も浮上してこなかった


ぴくりとも動かない絢は頭部に圧力を感じた

触れられている大きさから察するに、人の手のひらだろうか

だが3人は絢には指一本触れていない


自分の意思とは関係せず、頭がゆっくりと太ももを見るように下がっていく


「交渉妥結、ですね」


そう言うと体の自由が効かない絢の肩や首に触れ、おかしそうに笑う3人の声が旅館に木霊した





「…理不尽だ」


俺は女将を睨みつけた


「なんの事でしょう?」


絢の名前が書かれた契約書を漆塗りの盆に乗せた白金髪の美女…名前は萩(はぎ)というらしい

彼女がスタッフルームに契約書を持って下がるのを見ていた俺は、女将の藤に契約は不当だと抗議していた


「何をおっしゃいますか

私達は脅してもおりませんし、ましてや強要もしておりません

契約書も、謝華様が自主的に書いてくださったではありませんか」


ニコニコと人が良さそうに微笑んでいるが、俺はもう騙されない


「契約書も書いていただけましたし

これから、よろしくお願いしますね」


「断る!」


「そうはいきませんよぉ」


姉様、こちらは菊という名前だそうだが今はそんな事どうでもいい

菊は人を食ったような態度と笑みを浮かべている事から、明らかに俺を見下していることが窺える

なぜ藤だけが表に出て、菊達が出てこなかった理由がよく分かる

因みに萩も菊に似た人種だった


「いや断る!

あの時の俺はまともな精神状態じゃなかった

それに頼み事の内容も…ふざけてるだろ、これ!」


端を糸で縛ってある古びた本をバン!とテーブルに叩きつけた




頼み事がある

そう言われて渡された古本の中身を渋々確認すると、墨汁で斜めに描かれた格子が全ページに渡り描かれているだけの物だった


「人をおちょくるにしても限度があるだろ!」


本の角を指で挟み、目を吊り上げて俺は怒った


「いえいえ、馬鹿にしてなどおりません

至極、真面目にお願いしております」


笑みを引っ込めて急に真剣な表情になる藤に、訝しく思いながらも話を聞く


「この古書は先祖から代々弾き継がれてきた物の1つです」


細く白い指が転印紙と呼ばれた古い紙をなぞる


「転印紙と古書は一緒に持ち歩いてください」


「…なんの為にだ?」


「その紙と古書を使って、とある生き物を捕まえて欲しいのょ」


長髪を指で弄びながら菊はにこやかに言う


「我々は行き場を失ったモノ、悪さをするモノ達を旅館に閉じ込めるよう旦那様に頼まれているのょ

でも…ねぇ?」


困った顔で菊は人差し指を顎に当て、溜め息を吐いた


「私たちが近づくと逃げてしまうのです」


こちらも困り顔をする藤


「まさか、さっきの野良犬とかか?」


「あ…いえいえ

アレはまた別といいますか…」


なんだか歯切れが悪い物言いに、やはり後ろめたい事でもあるのかと勘繰るが、菊が笑いながら


「アレはだいぶ弱っているみたいですし、気になさらなくても大丈夫ですょ」


帰り道にはいませんからと、話を逸らされた


「じゃあ何を捕まえるんだ?」



「それは…【ナナシ】です」



「……ナナシ?」


「はい、ナナシです」


最初は語呂的に果物の一種か何かかと思ったが、生き物だと言っていたので海外から来た珍獣か何かかと尋ねた訊ねたが違った


「何の動物だ?

猿とか?」


「動物ではございません

ナナシとは、簡単に説明しますと邪なモノの一種です」


「………」



あ…この人達、ヤバい



アポも取らずに玄関に押しかけては「神を信じますか〜」と、こちらの意思を無視して強引に勧誘してくるタイプの人達に似てるやつだ


絢は確信した

この人達に関わると絶対、碌な事に巻き込まれないぞ…と


もしかして壺を足元に置いていたのも、勧誘するためにわざと置いたんじゃ…?

人を疑いたくはないが、この3人ならやりかねないので至極嫌そうな、胡散臭げな顔でキッパリと否定した


「俺、そういうの信じてないから

ましてや存在していない生き物を捕まえろなんて…あんた達、正気だとは思えないな」


俺がそう言うと、藤は何故か少し驚く

この男、本気か?と言いたげなその表情

まるで俺がおかしいかのような反応が非常に腹立たしい


「お客さん、地下に落ちているのを見た時も思ったけど…案外鈍感なのですねぇ」


「誰が鈍感だ!」


前に座る2人は可哀想な人を見る目で憤慨する絢を見た

そしてボソリと



「それに……凄く不味そう」



「え、なんだって?」


小さな声で呟かれ、よく聞こえなかったと聞き返すも


「なんでもありませんゎ」


と笑顔を向けられ、無理やり話を元に戻された


「お客様がこういった類の話を信じていないことはよく分かりました

ですが契約書にサインしていただいた通り、信じていようといまいと頼みは聞いていただきます」


「…その物言いが、人に頼んでいる態度かよ」


「はい」


紅をひいた唇の端を形よく持ち上げ、悪びれもせず強引に話を進めてくる2人の態度に絢はため息をつく


そして、ついに折れた


「………分かったよ」


承諾はしたが、自棄になっているのが読み取れるくらいぶっきらぼうなニュアンスで返した


勿論、納得なんてしていない


だが得体の知れない3人と、この自称老舗旅館から一刻も早く離れたかった


『早く帰りたい』


頭の中の大半はこの言葉で埋め尽くされていた


こんな話はさっさと終わらせよう

そう思い、一刻も早く終えるため話を促す


「で、それは邪な…なんだ?

妖怪かなんかか?」


詳しくはないが、邪な生き物といえば誰しも妖怪とか悪魔が真っ先に思いつくだろう


「妖怪…ね

妖怪は駄目よ」


違うじゃなく、なんで駄目…?


「なら悪魔か?」


「いえ、それも違うゎ

確かに妖怪や悪魔に似ているモノもいるけれど…妖怪と悪魔はダメ」


「こちらにもルールという物があるの

違う、別のモノでお願いね」


「出来れば力が大きくて、禍々しいモノが良いゎ」


禍々しくて妖怪でも悪魔でも無い、別のモノってなんだ?

絢の頭の中にクエスチョンマークが飛び交った


「ナナシというのはその言葉の通り、名前が無い生き物のことです」


「ああ…」


なるほど、だからナナシ…名無しか


「名前を付けるとね、名前が拡散されてしまう恐れがあるの

邪なモノは人々に名前が知れ渡ると力が増すから、名前をつけられないのよ」


力が大きいのは嬉しいけど、手がつけられないくらいのモノは困るのと藤は言う


「貴方も命が惜しいなら、ナナシに名前はつけないようにね?」


付ける気もないし、そのようなモノを探すつもりは毛頭なかった


「分かった」


ゆっくりと頷く

こんな茶番に付き合うだけで弁償が無かったことになる

それだけの為に絢は2人に話を合わせることにしただけで、深く理解しようとは全く思わなかった


先ほど書いた契約書

偽名を使ってやろうかと思ったが、残念ながらチェックインした時に本名を書いているのでそんな事をしたら確認された時にバレてしまう

あの時サインせずに帰っていればこんな怪しい話を受けずに済んだのにと後悔したが、最早後の祭りだ


楽しみにしていた旅行が無駄になってしまったと、沈んだ気持ちで萩が客室から持ってきた自分のバッグを無造作に開ける

入れたくはなかったが、本と紙を無造作に突っ込んだ


その時、再度話かけられて横を向いた絢の隙をつき、口が開いたままのバッグの中に天井の梁からコロリと転がり落ちてきた何かが紛れ込んだ

そんな事はつゆ知らず…

絢は盛り上がる中身を手で押さえ込んでからファスナーを閉めてバッグを持ち上げ、旅館を後にしたのだった




「あら…姉様

あの子、不味そうな人間に着いて行きましたわ」


5階の窓のカーテンの隙間から、3人は雪に足を取られる絢を覗き見ていた


「まぁ本当ね

きっと、いつもの気まぐれでしょ」


「そうでしょうけど

あの子がいなくなって、旅館は大丈夫かしら?」


「ここはただの隠れ蓑

別に廃れても問題ないゎ」


「それもそうですわね」


「えぇ

それにこの旅館も必要なくなりそうですし」



コンコン…


ケンケン…


ヒンヒン…



窓から差し込む光に映し出される3人の影

その影には、通常の人には絶対にありはしないはずの尖った大きな耳と尻尾が生えていた

降り積もる雪の中を1台の車が走り去り、見えなくなるまで…


それらはゆらりゆらりと愉快そうに、いつまでも蠢いていたのだった



ハジマリ【完】

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