第5話 ハジマリ5

唸り声がしたかと思えば、壺と暗闇の境目から何かが飛び出してきた



「いっ…!?」



完全に油断していた


足音が聞こえなかったのでしゃがみ込み、不用意に手を伸ばした先に…尖った大きな耳と鼻先が現れた

それは驚愕して目を見開く絢の差し出した手に襲いかかる

爪で引っ掻かれた手の甲が、紙のようにスッパリと切れた


慌てて手を引っ込める

幸い深い傷ではなかったが、血が滲んでたらりと床にこぼれ落ちた


ヒュッと息を詰まらせて後ろへ下がった絢に興味がなくなったのか

犬はガリガリと壁を掻き、コンクリートの亀裂に爪を引っ掛けながら器用に登りきると、フローリングに空いた穴から一目散に外へと飛び出していった


「なんなんだ、アレ…」


手を押さえながら呆然と見上げていると、天井から射していた光が何かに遮られた


まさか戻ってきたのか?

咄嗟に身構えるが、どうやらそれは奇遇だったようだ


「そこに誰かいますの?」




「すまなかったねぇ

まさか、あんなに床が傷んでいるとは思わなかったのよぉ」


「はぁ…」


無事、外に出られた俺は謝罪をされて空返事をする


脱出するためにロープを降ろしてくれた目の前の女性達に、話があるからと俺は5階の和室へと通されていた

どうやら5階は物を置いておく場所ではなく、女将や隣に立つ女性達の居住空間のようだ


でも女将は物置部屋だって言ってたんだよなぁ


まぁ、あんな美人な女将が寝泊まりする場所だと客に伝えれば、不埒な輩だと入ろうするから、ああ言ったのかもしれないな


案内してくれた女性達は女将ではなかったのだが、この旅館の共同経営者だとエレベーターの中で教えてくれた


感染症対策の為か口元が布製の華やかなマスクで隠れていて全貌は伺えないが、そんじょそこいらの美人とは一線を画すほどの美女だということは、その少し吊り上がり気味の目尻から放たれる妖艶な流し目から想像がつく


察するに、2人は女将によく似ているし年齢が近そうなのできっと姉妹なのだろう


ただ、こういうとなんだが…

ちょっと性格が…な


「んまぁ

姉様、お客様のここにコブが出来ておりますょ

痛そうですわねぇ」


着物に白金のロングヘアーの美女は何がおかしいのか

痛そうと言いながらも人の後頭部を見て、さもおかしそうに笑っていた

それに、先ほどからヒンヒンと変わった笑い方をする

姉様と呼ばれた女性も同様で、こちらをチラリと見てから目で笑い、ケンケンと口に篭ったよな笑い声をあげた

最初は笑って咽せたのかと思ったがそれはどうやら違うようで、この2人の笑い方…癖のようだ


その笑い方が、俺には微妙に耳障りで仕方なかった


この寒さで喉でもやられているのだろうか?



まるで日本の歴史ドラマを忠実に再現したかのような内装に、絢は驚いた


広い和室の奥には大きく立派な戸襖があり、襖紙には見たことも聞いたこともない動物が数多く描かれていた

その襖を女性達が開けながら進むと、最奥の部屋へと辿り着く

最後の戸襖を開けると、長い黒髪が風で靡いていた

床の間の前に立ち、こちらに背を向けていたが顔を確認しなくても分かる


間違いない、藤と名乗っていたあの女将だ


「藤、お客様をお連れしたわょ」


声をかけられ、女将は笑顔でこちらへと振り向いた


「あら姉様

ありがとうございます」


そして女将は申し訳なさそうに俺へと頭を下げて謝罪し「どうぞお座りください」と如何にも高級そうな座布団が敷かれた座椅子に座るよう促された


言われるがままに座ると、姉様と呼ばれている美女から女将は陶器の欠片を手渡していた

それは絢が地下で壊してしまった壺の1片だった


あれ…?

この人あそこに降りてないはずなのに、なんであの欠片を持ってるんだ?


「これは困りましたわ…」


欠片をどこで手に入れたのか不思議に思っていると、女将がどうしましょうと溜息をついた


「謝華様

この度はこちらの管理が行き届かず、お怪我をさせてしまい誠に申し訳ございませんでした」


「あ、いえ…」


そこで強く出ないでどうするよ?と自分でも思いはしたが、女将の手に持った欠片に気を取られてまた空返事をしてしまった


「宿泊費も返金いたしますし、落ちた際に負われた怪我などの治療費等も勿論お支払いさせていただきます

……ただ」


「ただ…?」


聞き返し、話を促すと…女将は綺麗に整った眉を寄せて少し困った顔で続きを話し始めた


「ただ、それとは別に問題がございまして…こちらなのですが」


そう言うと、女将は手に持っていたあの欠片をテーブルの上に置いた



「この壺だった物を、謝華様が蹴って壊されたとお聞きしました」


誰に?とか、なぜ誰もいなかったのに蹴って壊してしまった事を知っているのか?とか疑問が頭を駆け巡った


だが壊したことが自分であると知られている以上、下手に言い訳をするより素直に謝罪する方が良いと経験上知っている


「はい

地下に落ちたので、上階への道を探している時に誤って蹴ってしまいました

申し訳ありません」


「あぁ…そうだったのですね」


美女3人組はどうしたものかと顔を見合わせている

その様子からも、どうやら大事な物だったのだろうと察しがつく


…まぁ、大事な物をあんな湿った場所に置いておくのはどうかと思ったが、壊したのは間違いなく自分なので謝り「弁償します」と告げた

弁償して、治療費と宿泊費を貰えば終わり…そう思ったんだが


「それは不可能かと」


首を横にふるりと振り、女将は困ったようにコンコン…と、他の2人と似たような笑い声をあげた


「あの壺は名のある陶芸家から譲り受けた一品

それ故、代わりがないのです」


「そうですねぇ

それに弁償と言われましても、額が額なのでお客様には難しいかとぉ」


それはつまり、俺には払いようがない金額だと言われているのだ


「…因みに、おいくらくらいで?」


そうですねぇと白金髪の美女がひーふーみーと指を折って数え


「だいたい8000万くらいですねぇ」


と、笑顔で言った



「…………は?」



「治療費を抜いた額で8000万

利子は付けずに、です」


法外な額の請求に俺は度肝を抜かれた

絶句し、わなわなと唇が震える


両手に収まる大きさしかなかったのに、8000万!!?


本当にそんなにする物なのか、アレ!?


「そんな値段、するわけねえだろ!」


腰を上げ、思わず声をあげてありえないと否定した


「ほれ」


すると姉様の呼ばれる美女が、タブレット画面をこちらに見えるよう目の前に掲げた

そこには確かに俺が壊したのと同じ壺が、告げられた金額以上の数字で記載されていた


「模造品の可能性だって…」


「糸尻の中央に名前が彫ってあります

それと、こちらも証拠ですわ」


いかにも高級そうな木箱をテーブルにスッと出される

そして壺の欠片の裏を見ると、確かに名前が彫ってあった


「なんでそんな高価な物が…!」


こんなオンボロ旅館に数千万もする壷があるんだよ!?

その壺でも売って建て直せよ!!

と本当は叫びたかった

叫びたかったが、そこはグッと堪えた


「この壺は私の愛する旦那様が記念日にくださった大切な物

誰かに盗まれないようにあの場所に隠していたのですわ」


あんな水浸しの地下で大事な物を保管していた?

なんだ、それ

あまりにも胡散臭い…


「藤…

私達の、でしょ?」


「あら、ごめんなさい

つい…」


なんか今、会話の中に赤の他人が聞かない方が良さそうなドロドロとした何かが見え隠れした気がするが、はっきり言って今はそんな事どうでも良い


「確かに壺は俺が壊した

…だけどあの地下に落ちたのは、そちらの責任だよな?」


絢は女将をじっと見据えて言う


「それにあの地下に落ちた時、何かに手を引っ掻かれて怪我をしたんだ

あんた達の飼っている動物じゃないのか?」


最初は野良犬だと思っていた

だが、地下を出る時にのぼる為の階段には案内されず、落ちた穴からロープを下された

つまり、あの地下には出入り口などはなく、野良犬が入ることは出来なかったということだ

そうなると、この旅館で飼われている何かが…俺が落ちた穴から入ってきたか落ちたかしたのだろう

旅館内で野良犬が徘徊するなんてありえないので、飼い猫ではないかと絢は踏んでいた


「俺が気絶している間にあそこに落ちたのかは分からないが、その動物の気配を野良犬かもしれないと警戒して動いた結果、壺を壊すことになったんだ」


だから弁償はしない、とは言わない

そこは壊した負い目があるからだ

だが、そちらの責任でもあるのだから丸々全額を支払うつもりはないと匂わせた言い方をした


そういう俺に女将達は…笑っていた



それはもう…楽しそうに笑っていたんだ



「…では、こういたしませんか?」


目を細めながらコンコンと笑うと、女将は話を切り出した


「壺は弁償していただかなくても結構です

ですが、私たちの頼みを1つ聞いてはくださりませんか?」


「…それは内容による」


そう言うだろうと先読みしていたのか、警戒する俺を気にする様子もなく女将はどこから持ち出したのか、す…っとテーブルの上に紙を置く


それは何年も張り替えをされずに放置された障子のように黄色く燻み、端々は破れてボロボロになっている…1枚の古紙だった


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