第3話 その指で、あちきの肌に触れておくんなんし

(玄関を開ける音)


「はっ!!」


(音に反応する沙也風)


(玄関に駆けよる足音)


「藤次郎さま!!」


(いきなり抱き付き、切羽詰まった声。耳元で)


「おかえりなさい……ませ」


「どうもしないでありんす」

(少し恥ずかしそうに震える声)

「心配しねぇでおくんなんし。

 沙也風はただ、主さんのいない時間が途方もなく長く感じて、永遠に会えないかのように感じておりんした」


「ビードロから飛び出た金魚のように、呼吸ができず、身を捩るように苦しんでいたのでありんす」


「日のあるうちは、見る物みな珍しく、心がはずみんしたが、日が落ちるにつれて、主さまが恋しゅうて、恋しゅうて」


「つまりは、死ぬほど、寂しかったのでありんす」


「ああ、沙也風はやっと、呼吸ができまする。すぅーーーはぁ」


「藤次郎様。ご無事で何より……」


「さぁさぁ、夕餉ゆうげの準備ができておりんす」


「いい匂いが下まで漂っていたでありんすか? ふふふ。はい。ご馳走でありんすねぇ」


「藤次郎様から頂いた、水晶板、ではなくて、スマートホンとやらに『殿方が喜ぶ夕餉』と話かけんしたら、この牛鍋が出てきんした」


「ええ、もちろん。

 ヘイシリ! と呪文を唱えんした」


(ぐつぐつと鍋の音)


「主さんがスマートホンにチャージ? してくだすった……ポイポイ? パイパイ?

 ペイペイ……?」


 !!


「ペイペイでありんした!

 ペイペイで、銭がなくてもなんでも買う事ができんした」


「スマートホンは、まるで打ち出の小づちのようでありんすねぇ。

 一体この小さな板に、どこからどのように銭を入れたのでありんすか?


 まるで、魔術師のようでござりんすなぁ」


「その指で、魔法を使いんしたか? うふふふ」


(卵を小皿に割る音)


「スーパーとやらは、まるで異国のようでありんした」


「野菜もお肉も日用品も、全て一つ屋根の下で揃うなど、お江戸の時代では到底考えられない事でありんす」


(カチャカチャと卵を箸でかき混ぜる音)

(コトっと小皿を置く音)


「藤次郎さま?(深刻な声)」


「お顔の色が、よろしゅうありんせん!」


「いいえ!」


「町娘の目は胡麻化せても、あちきの目は胡麻化す事はできんせん。

 その目の移ろい、眉の動き、頬の血色。

 さては、お勤めが過酷でありんしたな」


「なにかありんしたか?」


「明日? 明日、大事な任務があるのでござりんすね?」


「戦でございんすか?

 戦に、行くのでありんすか?」


「え?」


「プレゼン?」


「プレゼンという大事な任務が、明日に控えているのでござりんすね?」


「命の危険は、ないのでございんすね?(少しほっとした声)」


「メンタル勝負?」


「メンタル? とは?」


「精神?」


「ならば、さぁさぁ。精をつけておくんなんし。夕餉の準備が整いんした」


「熱いので、あちきが冷ましてお口までお運びしんしょう。


 ふぅふぅふぅ、はい、あーんっ」


「おいしゅうござりんすか?」


「生卵に、牛の肉はさぞ精がつくことでありんしょう。


 さぁさぁ、白菜も、トロリととろけておりんすよ。

 ふぅふぅーーー」



 「ん? まだ、お顔の色が優れないでありんすねぇ」


 「ならば!」


(ザサっと衣擦れの音)


「あちきの肌に、あちきの肩に、あちきの胸に、触れておくんなんし。


 殿方にとって、おなごの肌は何よりのカンフル剤でありんす。


(手を取る)


 さぁ、あちきの肌に。


(胸元に手を入れる)


 その、魔術師のような指で、あちきの体から、元気をチャージしておくんなんし」

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