消えない絆1
「さて、木下花音さん。今日も君の話を聞かせてくれるかな?」
診察室で、医師が言った。白髪交じりの頭が特徴的なその医師は、優しい笑みを浮かべている。
当時九歳だった木下花音は、両手の指を絡めると、鋭い目つきで言った。
「……私は、木下花音ではない」
医師は、一瞬目を見開いた後、考え込むような表情になった。しばらく沈黙が続いた後、医師は聞いた。
「…では、君の名前は?」
「秀一郎。これでも、六十年以上生きている大学教授だ」
「教授……そうですか。では、苗字もお聞きしてよろしいですか?」
「苗字は無い」
医師は、また考え込むと、何かを思いついたような表情になり、こう言った。
「苗字が無いと不便な事もあるでしょう。よろしければ、私の苗字を使って下さい。私は――
強い雨の降るある日、捜査一課の会議室に花音さんと堀江先生が呼ばれた。会議室には私と御厨さんが待っている。
「今回は、どういった事件なんですか?」
堀江先生が聞く。御厨さんが、重苦しい空気の中口を開いた。
「……今朝、ご遺体が発見されました。被害者は、羽山大学の教授で、名前は……瀬尾京太郎」
堀江先生が驚愕で眼を見開いた。いつも無表情の花音さんも目を見開いている。
それもそのはずだ。以前聞いた事があるが、瀬尾教授は堀江先生の恩師である。そして、臨床の精神科医としても活躍していた教授は、花音さんが養護施設に保護された後初めて診てもらった医師でもある。
花音さんのもう一つの人格の苗字が瀬尾なのも、教授の影響だろう。
「……そんな……先生が……」
堀江先生が呟く。
「まだ事件が発覚して数時間しか経っていませんが、お二人が捜査に参加できるよう上司に掛け合っています。……お二人が辛いなら辞退なさって頂いて構いませんが、どうなさいますか?」
御厨さんが聞いた。
「捜査に参加します」
そう言ったのは、堀江先生ではなく、花音さんだった。
秀一郎さんモードではない時に、こんなに力強い言葉を発するのを、初めて聞いた
しばらくして、私達は、殺害現場である教授室に足を踏み入れていた。ご遺体は既に運ばれている。
「……今朝八時半頃、研究内容について教授に質問しに来たゼミ生がご遺体を発見したようです」
私が二人に説明する。
凶器は、教授室に置いてあった大きめのガラスの灰皿。撲殺だった。犯人が灰皿を持った時に落としたらしいタバコの吸い殻の灰が、まだ床のカーペットに残っている。床に落ちていた吸い殻は鑑識が回収したはずだが、灰までは回収しきれなかったのだろう。
死亡推定時刻は、昨日の二十時頃から今日の二時頃。
動機がありそうな者も、調べてある。瀬尾教授の患者の母親で、岸本厚子という女性。息子への治療方針に不満を持っていたらしい。
昨日も病院に電話をして、「先程受診した時、瀬尾教授からタバコの匂いがしたが、自分は非喫煙者なので少しの匂いでも気になる」と文句を言っていたとの事だ。
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