現在2

 だから、もういいのだ。どうでもいい。


 あなたと磯千鳥凪咲いそちどりなぎさがどこを旅していようと、どんな時間の使い方をしていようと、仲を深めていようが破局していようが、私には関係のないことだ。


 磯千鳥凪咲にこの映像を託された意味だって、読み解く必要はない。だって、そうでしょう? 私は私だけが存在する世界に生息していて、それだけで精一杯、ただならなくて、だったら外界の事情には無関心でいるべき、それが生存本能というものだ。


 そうだ、そうするべきだ。気にすることはない。このスマホは明日の朝にでも交番に届けよう。それで終了。まためんどくさくてだるくてつまんない日々に戻ろう。気づけば窓の外の空は白んでいて、このどーでもいーはずの記録映像にかなりの時間と思考を吸い取られていたと知る。あほらし、と私は嘆いて、磯千鳥凪咲のスマホをベッドの上に叩きつけた。


 その時、ベッドの上の布団が、細かく振動した。


 タイミングがよすぎたせいか、最初は布団とスマホの衝突が原因か、と思った。けれど、さすがに違うな、と現代に生きる私には分かってしまう。この振動の周期は、着信のそれだ。おそるおそるスマホに触れる。そして、画面を見る。ショートメッセージの受信が、一件。差出人は見知らぬアドレスで、それもそのはず、宛先は磯千鳥凪咲のスマホなのだ。


 開封に躊躇する。私の手元にあるからといって、他人のスマホに違いないわけで、勝手に見るわけにもいかない。その一方で、なにを今更、とも思った。散々、第三者の旅行記を覗いたあとじゃないか。このメッセージを見たところで何が変わるのか。そうした逡巡の果て、私はショートメッセージを開封した。


 本文は無かった。しかし、添付ファイルがひとつ。どうやら動画のようだった。


 再生。


 画面に映ったのは黒だった。何かがレンズを覆っているのか、もしくは、机か床に伏せられているためか、とにかく画面上に被写体が映っていない。けれど、なにかを撮影していることは確かだ。音が聴こえる。微かに、オシャレなジャズミュージック? そして、食器が軽くぶつかったようなコツンという音がして、その組み合わせにカフェか喫茶店を連想した。たぶん、正解だろう。遠くで、お待たせしました、という男性の声がした。


 その直後のことだった。聞き馴染みのある声が聴こえた。


『どういう……事? もう一度、説明して』


 添付ファイルが動画だという時点で予感はしていた。その予感が的中したということになる。その声は、まぎれもなくあなたのものだった。さきほどまで観ていた旅行記の中で聞いた声とおなじもの。


『何度繰り返したっていいけど、内容は変わらないよ。クイールは活動休止する』

そして、あなたではない声が続く。それもまた聞き覚えのある声。もはや驚きはない。磯千鳥凪咲の声。なるほど、茶番は続くのだ。


 九十九里浜、宮島、ひたち海浜公園、善行寺ときて、最後の(これで最後でいいんだよな? と若干の疑念はある)動画は、どこかの喫茶店。あなたと磯千鳥凪咲を撮影している、という共通項はあれど、旅行記ではないようだ。


 そう。この映像は旅行記でない──と知るや、今日一番の違和感が私を襲った。


 これまでに観た動画は、磯千鳥凪咲の視点からあなたを映したものだった。すべて他撮りで、なので撮影中の磯千鳥凪咲の心情を理解するのは簡単だ。旅行で分かち合う大切な時間を、恋人の表情や仕草を記録しておきたい。自然な感情、映像との矛盾もなかろう。


 しかし、今送られてきた映像はどうだ。真っ暗な画面、記録されているのは会話音声のみ……つまりこれは盗撮、盗聴だ。言い換えれば、不自然極まりない映像で、もっと言えば、なにか故意がなければこんな撮影はしない。


 故意? そこまで思考が至り、私はハッとする。


 この映像にこそ、磯千鳥凪咲の意図が込められているのではないか。


『クイールは次回のライブを最後に、活動休止。そしてあたしはバンドを抜けて、音楽を辞めるつもり』


 磯千鳥凪咲が言った。どうやらこれが本題らしい。


 ともすれば、なんだ。ここまで迂遠な手法を用いて、磯千鳥凪咲が私に伝えたかったことって……バンド活動を辞める、って話? ははっ。だとすればお笑い草だ。興味もなければ、関係もない。どうでもよすぎるお話だ。


 磯千鳥凪咲が所属するクイールというインディーバンドは、お世辞にも知名度があるとはいえない。だからテレビやラジオで曲を聴く機会もないし、あなたが磯千鳥凪咲と交際を始めなければ、知る機会だって一生なかったろう。すなわち私はクイールのファンでもなんでもないし、活動休止しようがなんとも思わない。


『どうして?』と尋ねたのは、スマホの中のあなただ。『どうして……辞めるの。諦めるの? なんで、』


 声が震えている。すがりつくような弱弱しいトーン。どうもあなたにとっては一大事らしく、切迫感が伝わってくるが、あいにく私は共感できない。


『簡単な話。売れなかったからだよ』と言ったのは、磯千鳥凪咲だ。『クイールを組んで、もう十年。インディーズデビューしてからは六年か。頑張ってやってきたけど、ここが潮時かも、って思ったんだよ。元々分かってはいたんだ。あたしの音楽って大衆向きじゃないし……それでも、たった一人でもいいから聴く人の心をどうにかしてやりたい、狂わせるほどの音楽をやりたいって思っていた』


 一人のバンドマンの、切実な独白。しかし、私の心は揺さぶられない。


『けど、それも難しかったな。バンド活動で誰かの人生に突き刺さることはできなかった。あたしの存在は、誰の人生にも影響しなかった。そういうことに気づいちゃって……続ける意義、みたいのを見失った。それだけだよ』


 停止ボタンを押すのも億劫で、ただそれだけの理由で垂れ流され続ける音声が、耳に入ってくる。口からは、知らねえよクソが、という言葉が漏れ出す。


『でも、嫌じゃん? 自分が絶対的な存在になれないって思い知らされるの。最悪じゃん。あたしの価値って? って悲しくなるじゃん。そうは思いたくないんだ。だから、あたしね。思いついたことがあってさ。これまでとは違う、別の方法で』


 そうして私は、磯千鳥凪咲が吐露する本音を聞き流して、深く考えることも放棄して、ちょうどベッドに身を投げたとき、それは午前四時七分のこと、


『あたしの価値を証明してやろうかなって、思』


 不自然に途切れた映像の音声が、不意の閃きに接続した。

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