2年前

   ■


 冬の長野の夜は、人を殺す寒さだ。比喩ではない。長野駅の標高は361mで、これってつまり東京タワーぐらいの高さに地面があるということ。真冬、吹きさらしの特別展望台に、あなたは平気な顔をして立っている。長野県に生まれたあなたにとってはそれが日常で、それでも一秒でも早く建物の中へ逃げ込みたいと考えている。


 赤信号が、急ぐあなたの足を止める。右、左、右と足踏みをして、じれったさを殺す。もこもこの手袋で自分の両頬に触れて、寒さを紛らわす。横断歩道の向こう岸には、長野駅前にのみ所在するショッピングビル。見た目は渋谷の109みたいだけれど、だいぶ小さい。その地下一階が、あなたの目的地だった。


 信号が青に変わって、あなたは走り出す。生徒会の業務が忙しくて、予想よりも遅くなってしまった。その上、一組キャンセルが出たとのことで、クイールの出番が早まったらしくて、最悪。クイールの曲を聴けなくちゃ、わたし何のために三千円払ったのか分かんなくなる、とあなたは焦る。


 ミニチュアの109の前に到着して、階段を駆け下りて、すぐ左手にはライブハウス。目的地に到着したあなたは、勢いよく扉を開けた。


   ■


 この年の夏の終わり、あなたはこっぴどい失恋をしていて、人生とかマジでどうでもいい、のモードに突入し、あらゆる開き直り方を模索していた。その様は、迷走、にほかならなかった。あなたは、光り輝く未来へ一直線! の生き方を辞めた。

敷かれたレールの上を行くのはまっぴらだ、というのは伝統的なグレ方のひとつだが、屈折に至った原因が親でなく同級生の男子となると、レールを自分流に組み替える、という斬新なグレ方に走るらしい。人生をプラレールかなんかだと思っている? と周囲は心配した。恋する思春期からプラレールで遊ぶ児童期への逆走、幼児退行と呼ぶべきかもしれない。


 ひとつは、生徒会への所属。あなたは規律を重んじるタイプでもなければ、他者を先導するタイプでもないのに、突然、生徒会長を目指す決心をした。いいや、違う。本当の目標はその先にあったのだ。魔王。わたし、魔王になる。生徒会長になるのは、そのための前準備、あるいは踏み台。あなたはそう意気込んでいた。


「魔王を目指す理由? そんなの決まってるでしょ。庄司しょうじくんに一矢報いるためだよ」


 庄司くん、というのは、あなたがフラれた男子の名前だった。


 ふたつに、十七年間の人生で貯蓄したお年玉を全額、タワーレコードで消費した。心の穴を埋めてくれるのは、やっぱ音楽かなって。あなたはそう言って、商品棚の端から気になったCDをすべて買い物カゴへぶちこんだ。爆買い外国人や転売ヤーも真っ青の買い占めっぷりを店員が見逃すはずもなく、「転売目的の購入はご遠慮ください」と釘を刺され、あなたは冷汗をかいた。いいえ違うんです。失恋しただけです。爆買い失恋人です、傷心ヤーです。と、ぜんぜん上手くない返しで切り抜けていたが、背中を刺す冷ややかな視線は、退店するまで続いた。


 その購入品の中に、クイールというロックバンドのアルバムがあった。


 クイールはインディーバンドだった。SNSのフォロワー数は三千人程度で、ミュージックビデオの再生回数は多くて一万前後。知名度は全国区とはとても言い難い。当然あなたは知らなかったし、高校の軽音部員でさえ認知しているか怪しい。


 だからそれは運命的な出会いであり、一目惚れだった。いいえ、音楽なのだから一耳惚れ、というべきだろう。あなたはたった一度の再生でクイールに恋を始めたのだ。特に、あっけらかんと希死念慮を謳う詩とボーカリストの歌声に、あなたは惹かれた。


 すぐさま、ライブ情報を検索した。その結果、冬に対バン形式の全国ツアーが控えていることを知る。空になった財布を覗き込んで、最悪だ、と己の暴走を悔いてから、お年玉の前借りの交渉のため、父親のいるリビングへと向かった。


   ■

 

 あの日から待ち望んでいたクイールのライブに、あなたは間に合わなかった。


 ライブハウスの扉を開けたとき、ステージ上には知らないバンドが立っていた。バーカウンターの強面なお兄さんに「このバンド、何番目ですか?」と尋ねると、「トリだね」と素っ気なく返された。トリ、なのに、クイールじゃない。小学一年生でもできる簡単な計算だ。クイールの出番は終了していた。


 あなたは、ちゃんと悲しい気持ちになった。途端に、感情のダムが決壊した。ここ半年間の我慢の限界が、瞬時に到来した。庄司くんへの恋慕がぶり返して、遅効性の毒みたいに手先を痺れさせた。全身が、ガタガタと震えて止まらなくなった。

いや違う、この震えはきっと寒さのせいだ。冬の長野の夜は人を殺す寒さ。比喩じゃない。マジで死にそう。そうやって気候のせいにしたのは、あなたの精一杯の悪あがきだった。


 五分前にくぐったライブハウスの扉に、あなたは手をかけた。もうここにいる意味はない。帰ろう。そうして、あなたは扉を開けた。


 しかしすぐに、あなたのそれよりも強い力で扉は閉められる。扉をぐっと押して、あなたの退室を妨害する右手が視界に入る。混乱半分で振り返ると、大人の女性が立っていた。


「君さ、来たばっかでしょ。なのに、もう帰んの?」


 その女性の圧のある声と言葉に磔にされて、あなたはその場から動けなくなった。辛うじて、え、という音だけが口から出た。


 彼女は、スラリとした体躯が目立つクロップドのキャミソールにレザージャケットを羽織っていた。鎖骨まで伸びた髪の先に汗が煌めいていて、どうも彼女だけ季節が冬じゃない。たしかにライブハウス内は熱狂の只中だけれど、それにしたって。


 あなたが抱いた違和感に答えを出すみたいに、その女性は続きを口にする。


「最悪だよ、最悪。あたしたちがどういう気持ちで音楽やってると思って。逃がさないよ。せっかく来たなら、最後までいてよ。今演奏しているのはあたしのバンドじゃないけど、同志なんだよ。頼むから聴いてって。そしてあわよくば、刺され」


 そこであなたは、ようやく気づく。


 目の前にいる女性が、傷心ヤーのあなたを救った人間であることを。


「もしかしたら、君を狂わす音楽、かもしれないよ」


 ロックバンド・クイールのボーカリスト──磯千鳥凪咲いそちどりなぎさであることを。



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