2023年5月4日

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 春はネモフィラの季節で、ネモフィラといえば茨城県のひたち海浜公園が有名だ。


 受験生になりたての春、あなたは磯千鳥凪咲いそちどりなぎさとひたち海浜公園を訪れていた。


 空と地面との境界線が分からないほど、一面にネモフィラの青が広がっている、そこは「みはらしの丘」と名付けられた花畑。ゴールデンウィークの真っただ中ともあり、混雑している。丘の頂上には、コーヒー豆ほどの大きさの人間が行列を成していて、かなり広大な敷地面積とそれなりの標高があることが見て取れる。


 あなたは麓から頂上を見上げ、立ち止まり、磯千鳥凪咲へと振り向いた。


「本当に登るの? こんなの、登山だよ」

「そこに丘があるならば」

「量産型登山家の発言だ。いいの、そんなんで。もっと個性を出さなくて」

「君は二つ間違えていて、まず、あたしは登山家じゃない。そして、旅行に個性は要らない。代わりに必要なのが、好奇心」

「好奇心はわたしの脚をも殺す、だよ」

「相変わらず、ジョークが下手で可愛いね」


 あなたは、磯千鳥凪咲にふくれ面をお見舞いする。恋人への賛辞というより、子供をあやすためのセリフに聞こえて、あなたの内心は穏やかでない。


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 結局、あなたたちは丘を登りきった。


 頂上からの眺めは、労力に見合った絶景だった。普段は多弁なあなたが、言葉を失うほどだ。手前に青が広がっていて、遠くに観覧車が見える。風景の一部としての観覧車は、どうしてここまで美しいのだろう、とあなたは考えている。幻想的なネモフィラ畑との相性が抜群で「アルバムのジャケットとして切り抜きたい景色だ」とあなたは磯千鳥凪咲に囁いた。返答はないが、肯きはあったかもしれない。


 実のところ、観覧車はあなたが最も嫌いなアトラクションのひとつだった。プラプラと揺れるワゴンが、簡単に落下しそうで恐ろしいのだ。とはいえ、高所恐怖症とも少し性質が違った。安全な高所に恐れはない。たとえば、この「みはらしの丘」への登頂にそういった意味での抵抗はなかった。疲れるから嫌、みたいな気持ちはあれど。


「わたしね。地球に落下する隕石は、何故かたまたまわたしの頭上めがけて落下してきて、そうして人生はあっけなく終わる、みたいな予感を抱えて生きてきた」


 突拍子もない発言にも聞こえるそれは、おそらく心の底から漏れ出た本音だったのだろう。どうしてか、あなたはずっと「死」を身近に感じていた。生も死も運の要素が大きくて、自分はツキのない人間だから、きっと簡単に「死」に選ばれるのだろう、と信じてやまなかった。だから観覧車には乗りたくない。自分が乗るワゴンに限って、地面に落下するに違いない。


「けど、」そんなあなたが発した、「凪咲と一緒なら、そうならない気がするよ」


 この言葉の重大性を、磯千鳥凪咲は理解しただろうか。


 いいや。わかるまい。


 たしかに二人は恋人同士である。しかし、年齢は離れているし、交際歴も浅い。共有している情報量も、感情量も、その行間を読み解くには、あなたが恐れているものの正体を見抜くには、まるで足りなかった。


「それって、避雷針みたいな話?」


 そして磯千鳥凪咲は、てんで的外れな返答をする。


 あなたは不服そうに、それでいてどこか満足そうに口角を吊り上げて、


「いいよもう、解釈はおまかせで。……毎年、ここに来ようね」

「悪くない提案だね」

「提案で終わらせたくないから、約束にしてよ」


 あなたは精一杯の虚勢を振り絞って、尋ねた。


 しばらく、無音が続いた。あなたが心配になるには、充分な間が流れた。あるいは磯千鳥凪咲の駆引きテクかもしれない、とあなたは考えている。いいや、そう考えることにして、臆病を中和させたのだ。


 磯千鳥凪咲が口を開いたのは、最後の十秒間のこと。


「もちろん」


 その後で、一呼吸挟んでから、


「君が愛してくれるうちは、何度でもここを訪れよう」


 そうして、二人が出会った頃に記憶は遡る。

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