2023年9月6日
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広島県宮島を目指して、連絡船は瀬戸内海を進む。あなたはその甲板に立ち、雄大な青の景色を眺めていた。あなたの地元は長野県で、海とは縁遠い生活を送っている。だからだろうか。「ずいぶん遠いところに来たみたい」と映画の終盤みたいな言葉を零して、
「まるで逃避行のようなセリフ。なんてことない、今日は単なる平日だよ」
磯千鳥凪咲が言う通り、その日付は水曜日。シルバーウィークにしては気が早い平日のど真ん中だった。けれど、いやだからこそ、あなたにとってはまさしく「逃避行のような」一日だったろう。あなたは受験生だった。にもかかわらず高校を欠席して、恋人と小旅行にくりだしている。常識的な大人ならば看過するはずもない不良行為だ。
しかし、磯千鳥凪咲は大人であっても、常識的ではなかった。
この頃、非常識な大人を恋人に持ったあなたは、非常識な受験生活を送っていたわけだ。だが、それを誰が責められよう。「部活か勉強かバイトか恋か。青春時代で獲得できるのは、その内の二つのみである」という一次ソースも不確かな格言の通り、あなたはその内の二つを選び取っただけだ。つまり、恋と恋、である。重複して選択できない、というルール設定は無かったはずだし、あなたの青春は間違っていない。
「セイレーン、いるかな」
数秒間の静寂を割いたのは、磯千鳥凪咲の独り言だった。
あなたには耳馴染みのない単語だった。瀬戸内海に生息するマイナーな海洋生物だろうか、と興味を惹かれたのかもしれない。あなたは彼女の独り言を捕まえて、「せいれーん?」と首を傾げた。すると、磯千鳥凪咲は、いやね、と言葉を継いでから、
「ギリシャ神話に出てくる、海の怪物。上半身は人間で、下半身は魚、あるいは鳥でさ。歌声で人をおびき寄せて、海に沈めるっていう設定だよ。たしか神話の中にもセイレーンが棲む海域を船で渡るってエピソードがあったな、って思い出したんだ」
磯千鳥凪咲の発言に、あなたは眉根を寄せた。
「……このシチュエーションにその引用は最悪すぎるって」
「じゃあタイタニックのが良かったかな」
「そっちも沈むじゃん」
あはは、と磯千鳥凪咲は間髪入れずに笑った。想定通りのツッコミが返ってきたからか、もしくはブラックジョークを許容してくれるあなたが愛おしくてたまらないのか、笑い声はしばらく続いた。つられるように、あなたの表情も綻んだ。
しばらくして、磯千鳥凪咲が囁き声で言った。
「あたし、セイレーンって憧れるな」
あなたにも真意が掴めない発言だったのだろう、返答はない。波音や連絡船の走行音が鳴っているが、それはとても歌声には聴こえない。だからあなたがセイレーンによって海へ沈められる悲劇は当然起こらず、穏やかな旅行風景だけがそこにはあって。
そこで、あなたたちの会話は止まる。
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