第72話 『酒呑童子』討伐・春の陣 一

「……兄貴、本当に行くんですかい?」


 大江山おおえやまにこの凶賊ありと知られた『酒呑童子しゅてんどうじ』には、三人の幹部がいた。


 トラクマ、ホシグマ、キンクマの三名である。


 この三人は『どこか小物臭さが抜けないので親しまれているキンクマ』『おしゃべりで陽気で場を盛り上げることに長けたホシグマ』、それから、『声を聞いた者がいないほど無口だが頼りがいがあり愛されているトラクマ』という三人であった。


 だが、今は、一人になっている。


 キンクマは大江山に入り込んだ連中を倒しに行ってから戻っておらず、


 あの目の細い巫女がイバラキに『殺せ』と命じ、イバラキはなんの抵抗もなく遂行したのだ。


 トラクマは、ホシグマの末期の顔が忘れられない。


 何が起きているかわからないというような表情。胸に突き立てられたとイバラキの顔とを交互に見て、それから、にへら、と笑ってしまった、弟分……

 嘘ですよね? と言おうとしていた。トラクマには、それがわかった。姉であり母と慕っていたイバラキによるなんの迷いもない裏切り。嘘だと思いたかった。傍で見ていたトラクマさえも、信じたくなかった。殺された当事者であるホシグマなど、末期の後まで、何かのタチの悪い冗談だと思いながら逝ったことだろう。


 そこでトラクマたちを皆殺しにするかと思いきや……


『逃げろ』


 ……斬りかかってきたイバラキの、うめくような声が忘れられない。

 あれはイバラキに残っただった。あの目の細い巫女にをされて正気を失ったイバラキが、それでも振り絞った、部下たちへの愛情だった。


 なかなか自分たちを斬れないイバラキを見る、あの目の細い巫女の顔が忘れられない。


 イバラキが何より嫌った、『偉そうなやつ』の顔だ。


 だというのに、イバラキはあの巫女に従うばかりで、怒りも、悲しみも、喜びも、何もない。

 変な痴女みたいな恰好にさせられたイバラキは、普段とまるで違う、美しい人形のようだった。そしてそれは、トラクマたちが母のように、姉のように敬愛したイバラキの顔ではなかった。


 イバラキは、


 それがわかったのに、その場でイバラキやあの目の細い巫女に斬りかかることができなかったのを、トラクマは悔いているし、同時に、誇ってもいた。


 息子、あるいは弟、もしくは殺されたホシグマの兄としては、情けない、正しくない行動であった。

 だが、目標を完遂するために手段を選ばない復讐者として、冷静な判断だった。


 自分たちだけでは勝てない。

 イバラキを潜り抜けて、あの巫女を殺せない。


 ゆえに、生き残った十名ぽっちの山賊どもを引き連れて、トラクマは目指す。


 大江山の侵入者。

 恐らくは、キンクマを倒した連中。

 そして、『酒呑童子』を終わらせに来た、あの連中に、頼むのだ。


『どうか、俺たちを終わらせてくれ』と。


 何よりも愛していた自分たちの故郷。

 家族のような者たち。

 慕っていた頭目。


 すべて、あの巫女にダメにされてしまった。

 自分たちを逃がそうとしたあの動きこそ、最後に残った『イバラキらしさ』だろう。あとは意に添わぬ巫女のもとで、意に添わぬことをさせられ続けるだけ。だから……


『俺たちを終わらせてくれ』。


 そして……


『あの巫女を、殺してくれ。イバラキを。そのためなら……』


 ──この命、惜しくはない。


 もとより拾われた命を返す時が来た。

 トラクマは決意する。


 この命、人生、なけなしの誇り、すべてすべて泥の中に落としても構わない。

 大名家のサムライの尻を舐めたっていい。だから……


 イバラキを、解放する。

 支配から。それが無理なら……生から。



 は山の様子を高いところから見ていた。


 春の山はソレにとって住みよい環境だった。ゆえに、彼はここで穏やかな余生を過ごすつもりであった。

 動物もいるが、彼の好みは木の実や蜜である。木の幹を引っ掻いて蜜を手に取って舐め、小鳥や小動物たちが献上してくる木の実をんで生きる。

 かつて他の山で戦いに明け暮れて傷だらけになった身には、なんとも過ぎた平和な余生である。


 彼は縄張り争いという、生きているうちに無限に続くものに疲れ果てていた。

 彼は高い知能を持っており、この山を守ると共生しているつもりでいた。


 あの人間どもは臭いし汚いが、それでも、この山がであるように守ってくれている。

 彼のかつていた山は、人間に切り開かれてしまった。多くの同族たち……幾度も争った関係なので仲間と呼ぶには抵抗がある……は、人間たちに殺された。


 人間は個々では弱い。だが、集まると強い。

 そして集まった人間の強さに対抗するには、同じ強さをぶつけるしかなかった。


 だが、彼にはそれができない。ゆえに、この山を根城にする連中との共生は、彼にとって都合がよく、心地いいものだった。


 ……だが、その山に、嗅ぎ慣れないニオイが立ち込め始めている。


 彼はその不愉快なニオイを表す言葉を知らない。ただ、

 それに、他の領域からだろうか。血のニオイまで漂ってくる。

 彼は長らく肉を口にしていない。だが、血のニオイで猛る本能は死んでいなかった。

 一方で彼は高い知性で、その興奮を抑える必要性を覚えてもいた。本能のままに暴れてはならない。長い時間を生き残ってきた彼は、生き残るために理性と知性こそがもっとも重要な武器であることを学習している。


 彼は……


「…………」


 そのは、引っ掻き傷で潰れた片目を、どこかへ向ける。


 彼が立ち上がると、周囲で休んでいた小動物たちが慌てふためくように逃げ去って行った。


 鳥が鳴き、小動物が悲鳴を上げ、木々がざわめく。


 穏やかではない音が半ばからちぎれた耳を苛立たせる。


 彼は古傷だらけの体を高く高く立てて、遠くの景色を見ていた。


 その視線の先にあるのは──


 不愉快なニオイの根源。

『夏』の領域であった。



 春の領域を進む氷邑ひむら梅雪ばいせつたちの前で、濁った青すぎる水たまりが、空中でうごめいている。

 水のある場所ならどこからでも招来する海魔かいま。そして、

 この二つがある限り、『軍を並べて進ませる』などという手間はいらない。兵糧も進軍路もいらぬ軍隊。それがいかに強いのか、わからぬ者などいないだろう。


 だが、梅雪の周囲を囲むのは三十人の剣士。さらには七星ななほし家侍大将の彦一ひこいちという、規格外の戦力。


 いかに有象無象が集まろうが崩し得ない必殺の部隊である。


 ……だが、それは


 ゆえに梅雪は、笑った。


「さて、?」


 ここでもただ海魔をぶつけてくるなどという、阿呆の戦術は用いまい。


 駒の質はこちらが上。だが、地の利と駒の数は向こうが上。


 指揮官としての本領が問われる戦いがいよいよ始まるものと、梅雪は思い、笑う。


 だが。

 ……そういった戦いは、始まらないのだ。


 あまりにも予想外なことが、起ころうとしていた。

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